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「弔い不足」が叫ばれる家族葬全盛時代、弔いたい気持ちはどう昇華させるのがいい?

「弔い不足」という言葉を聞いたことがありますか。縁ある人皆が集う「一般葬」ではなく、親族だけで葬儀を済ます「家族葬」が主流となりつつある今、弔いの機会を持てない人が心に寂しさを持ち続けてしまうことが問題視されています。葬儀に参列できなかった人の弔い不足は、家族葬を行った遺族の責任なのでしょうか。弔意は果たして、誰のためにあるのでしょうか。

「弔い不足」って?

弔い不足とは、葬儀や供養に対する心残りのことを指します。最近では、小規模葬儀の流行から弔い不足を感じる人が増えていると言われています。弔い不足を感じるのは、主に以下のような理由からです。

・家族葬なので、親族ではない自分は参列できなかった
・コロナ禍でやむなく少人数の葬儀になってしまい、参列して欲しい人にも参列してもらえなかった
・感染対策のため大事な人の最期に立ち会えなかった

確かに、コロナ禍で思うような葬儀ができなかった人は悔いが残ることでしょう。ここで注目したいのは、「家族葬だから参列できなかった」と寂しい想いを抱えている人たちです。あたかも家族葬を行う遺族に責任があるかのようにもとれてしまい、今後この「弔い不足」という言葉が広がると、家族葬を控える動きが出てくるかもしれません。

「弔意を示してくれる皆のためにも、大きな葬儀をしよう」
「せっかく皆が見送りたいと考えてくれているのだから、拒まないようにしよう」
「あとで弔い不足だと言われたくない」

そんな考えから、本当は家族葬としたいのに、関係者のために大きな葬儀を行う人がいるかもしれません。
でも、本当にそれでいいのでしょうか?
葬儀は、故人のためのものであり、遺族のためのものであるべきです。
「関係者に感謝を示したい」と考えるなら、大きな葬儀をするのもありですが、「感謝を示すべき」「示さなければならない」と、義務感から大規模葬をしてしまうと、その義務感のために多大な費用と労力をつぎ込まなければならなくなります。

弔いたい気持ちは誰のため?

ここで、「弔い不足」と感じている人の弔意は、誰のためのものなのか考えてみましょう。通常は、「遺族や故人のためのもの」という答えになると思います。しかし、本当にそうでしょうか。

ハーバード・ビジネススクール教授のマックス・H・ベイザーマンは、社会貢献のあり方について書いた著書で次のような事例を紹介しています。やや長文ですが引用します。

“2012年12月、コネティカット州ニュータウンのサンディフック小学校で銃乱射事件が起こり、20人の子どもと6人の職員が殺害された。すると、その直後から膨大な量の品物が届きはじめた。ニュータウン市役所に勤めるクリス・ケルシーによれば、テディ・ベアのぬいぐるみだけで6万7000体くらい届いたという。そのほかに、何千箱ものオモチャや衣料品が送られてきた。「倉庫に運び込まれた品物の多くは、ニュータウンの人々のために送られたというより、送り主のために送られたのだと思う」と、ケルシーは述べている。「少なくとも、こちらではそう感じている」”
『すこしでも確実に社会に役立つ選択をする』(マックス・H・ベイザーマン著、池村千秋訳、東洋館出版社)

ぬいぐるみはニュータウンの子どもたち全てに複数ずつ配ってもたくさん余り、残りは処分せざるを得なかったそうです。処分料金は膨大な物になったでしょう。この顛末を聞いて、「人の弔意を無にするなんて」と、ただ心を痛める人が、果たしているでしょうか。

事故現場の花束やペットボトル、誰が処分する?

日本でも、事故現場にはたくさんの花束やペットボトルが供えられることがあります。故人の好物などがお供えされていると、テレビ越しで見ていてもその想いに胸がいっぱいになってしまいます。しかし、ふと考えるのです。「あの大量のお供え物は、誰が持ち帰るのだろう?」

直射日光に長く晒されたペットボトルの中身が、無事とは到底思えません。当然処分することになります。行政であれ、遺族であれ、ボランティアであれ、大量のペットボトルの封を切り、中身を捨て、ラベルをはがしてリサイクルに回すのは大変な労力です。たくさんの花束の包装をはがすのも、仕事の一つとなります。

献花台があれば安全ですが、公道に通行人や車の邪魔になるほど積み上がっていれば、長く放っておく訳にはいきません。「近隣の苦情が来る前に撤去しなくては……」。お供えが多くなればなるほど、関係者の負担は増します。

もしも「処分が大変で困っているため、花束などの供物は一度ささげた後、お持ち帰りください」とお願いする貼り紙を設けたなら、持ち帰ってもらえるのでしょうか。

2022年に安倍晋三元首相が銃撃された現場では、献花台が撤去された後もあまりにお供え物が多いため、奈良市は「お花やお供えなどは、故人へのお気持ちと共にお持ち帰りください」と貼り紙を提示しました。これについてSNSでは賛否両論の声が飛び交いました。「人の心はお持ちでないのか」「怒りしかありません」など、激しい言葉で非難する人もいました。

遺族を責めるのは筋違い

弔意を無碍にされることに、激しい憤りを感じる人は多いようです。しかし、弔いたいと感じているのは自分自身で、弔意を受け取ってもらって嬉しい気持ちになるのも、また自分自身です。それを自覚できれば、「家族葬だから自分は参列できなかった。弔い不足を感じている」と思ったときに、遺族を責めるのは筋違いであることが分かるでしょう。

弔いたい気持ちをシャットアウトされても、自分自身がさげすまれたわけではありません。遺族としてはたんにキャパオーバーだから「弔問・弔電・供花・供物の類は辞退申し上げます」と言っているだけで、弔意そのものを否定しているわけではないのです。

遺族に受け取ってもらえない気持ちは、自分自身や、他に弔い不足を感じている仲間と一緒に昇華させましょう。故人と過ごした思い出の場所へ行ってみるも良し、仲間たちでお別れ会を開くも良し。「遺族がお別れ会を開いてくれればいいのに」と待つのではなく、自分が仲間を誘って主催し、遺族をゲストとして迎えてみてはいかがでしょうか。

遺族は堂々と、自分たちの葬儀をすればいい

遺族側がもし「あとで弔い不足だと言われたら嫌だから」と、本意ではないのに不特定多数の参列を許す葬儀にしたとしたら、きっと後が大変です。式前や式後にめまぐるしいあいさつ対応、式場から持ち帰った大量の供花の水やり、盛り籠の封を解いて缶詰や乾物の仕分け。食べきれなければ誰かにおすそ分けしなければなりません。香典返しの発送作業も大量になります。

遺族が、自分たちのお金と心を守り、葬儀でしっかり故人と向き合いたいと考えるなら、小規模葬儀を貫きましょう。

そして、もしどうしても大きな葬儀になりそうであれば、葬儀前だけでなく、葬儀後のサポート体制を万全にしておきましょう。後の処理は、遺族だけではなかなか進みません。


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