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この世界で「平和」を語る空虚さ

毎年、この時期になるとあらゆるメディアで「平和特集」が組まれる。

第二次世界大戦、太平洋戦争、特攻、原爆、終戦・・・・・・

忘れてはいけない。過ち。平和は大切。

私は毎年、誰にともない怒りで一杯になる。許せない。


なぜ私たちは、毎年この時期に平和を語るのだろうか。あ、もちろん、忘れてはいけないことだからなのだけど。

平和を語ることに、どうにも私は意義を見出すことができない。いや、正確に言えば、「戦争があったことを忘れてはいけない」「平和は大切だ」というスタンスで語られる平和ほど、無意味に思えるものは無い。

なぜならば、私たちは資本主義社会に生きているからである。

これは飛躍だろうか。違うと思う。持てる者に富が集まり、持たざる者はより失っていく、そういうシステムに組み込まれて生きている私たちは、結局、人の上に人を作り、人の下に人を作るのだ。下に置かれた者は、上を憎しみ、上の者は、下を見ることはない。ノブレスオブリージュは、建前である。

日本国憲法によって「健康で文化的な最低限度の生活」を保障されているならば、本来、一日の食事を我慢する人が居てはいけない。しかし、そうはなっていない。自衛隊の持つ護衛艦は軍艦・戦艦であり、戦力である。戦力と武力は同じである。憲法は行政を縛るためのものなので、憲法にある言葉を行政が「武力は戦力ではない」などと恣意的に解釈することは許されない。しかし、そうはなっていない。

焼夷弾や原爆によって市民を殺害するのは明白に戦時国際法違反であり、原爆慰霊碑に「過ちは繰り返しませぬから」と日本語で(つまり主語が日本人の形で)書くのはおかしい。しかし、そうはなっていない。

全て、人の下に人があることの証である。

私たちはもう、みんな、そのことに気づいている。
どれだけの建前を並べようと、人はすべからく幸福を追求する権利は持っていても、行使できるとは限らない。幸福になる権利は平等ではない。

出来もしないことを、そうあらねばならぬ、という論調で語り、「ではどうするのか」から目を逸らす語り方が、私はたぶん許せない。なぜなら、

もし、本当に、あらゆる人類が、公平に、どんな場所に生まれようとどんな環境で育とうとどんな額の資産を持っていようと、どんな性的指向だろうと、自由に幸福に生きる権利を生まれながらに持っていたならば、

たぶん私たちはこれほど平和には生きられていない。というより、そもそも既に絶滅していただろうから、である。

この世界が資本主義で、たまたま日本という地域に生まれて、たまたまこの国がアメリカと友好国で、たまたま、世界的な信用を得てモノを買ってもらえる国だったから、平和に暮らせている。

所詮、私たち人間も動物であって、自然界で生きていた猿がたまたま知恵を付けただけの生き物なのに、なぜ突然あらゆる個体が飢えることなく暮らし、遊び、夢を追い、子供を持つことができることになるのだろうか。そんなはずはない。

ただただ単純に、進化によって得た知恵と知識を動員して、出来る限り多くの人が楽に幸せになれるようにシステムを作って来たに過ぎない。そして重要なのは、私たちが作って来たシステムは「出来る限り多くの人が」幸せになれるシステムであって、「全ての人が」幸せになれるシステムではない、ということである。

なぜそんなシステムしか作れないかというと、それしか出来ないからである。自然の法則は、弱肉強食。弱い者は死ぬ。その根本原理を、理性と知識で無理矢理動かし、あらゆる人に満足な食事や医療を与えると、文明・経済を発展させるために資源を投入できなくなる。

生活保護などの弱者救済システムは、「全員を掬い上げる」と口で言いつつ、そもそもの前提として掬い上げることのできない人がいることを許容した設計になっている。

この世界では、たまたま資産を多く持っているか、たまたま頭が良い人が、社会の中枢で決定権を持ったり、新たなイノベーションを生み出し、さらなる富を得ることができる。
大多数の、それほど資産があるわけでもなく、それほど賢いわけでもない人は、その一部の「偉い人」たちの手足となって働くことしかできない。
偉い人は十分に食え、大多数の「普通」の人々はまあまあ食える。しかし、手足にすらなれない「普通」ではない人たちには、幸福追求権を行使できるほどの環境は与えられない。

そういう組織的社会運営によって、個人では作れないものも作ってきた。
一部の人に富が集まり、そのおこぼれに下々が与る仕組み(資本主義)を排除すると、個人は個人で自分の命に責任を持たなければならなくなる。全ての人に平等な生活を与えようとする仕組みは、試みられては潰えてきた。それは旧石器時代、類人猿時代と変わらないからだ。

私たちは「最大多数が幸福を得るため」に、みんなで一致団結、資本主義システムを作った。
資本家を頂点として、資本家の手となり足となり付いて行ける者だけ、資本家の富のおこぼれに預かり、命を繋ぐことができる。付いて来られない者が一部居ることからは、一貫して目を背けることで繁栄してきたのである。

つまり、要するに、長々と同じ事を繰り返し述べてきたが、

最大多数の平和のために、弱者の平和を手放させてきた

ということなのだ。

これのどこが『平和』なのだろうか。

平和は大切平和は大切平和は大切平和は大切…………

何一つ具体的な方策を教えることもなく、理念理想を押し付けているだけのように思えてならない。
平和になり得ないシステムの中に生きながら、「平和大切」とだけ言ってみたところで、一体何になるのだろう。

平和は大切。

毎年8月にだけ「平和は大切」と言って、なんとなく昔に思いを馳せ、平和人になったつもりになる、そんな慣習に、やり場の無い怒りを覚えるのである。

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