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飯塚事件➆〜「ないこと」を述べるのは、そんなにおかしいことなのか?

再審を求める飯塚事件の弁護団が挙げる冤罪説の根拠の一つに「八丁峠での目撃談が信用できない」というのがある。いわく、「車に関する記憶があまりに詳しすぎる」し、「車体にラインはなかった」という言い回しは唐突すきるというもの。

すでにあちこちで述べられているが、一見しての記憶というのは、目撃者の造詣の深さによって大きく異なるのは当たり前。自分は車にはまったく詳しくないので、かの目撃者のような説明はできないが、たとえば、中古レコード屋やアイドルの専門店の前を徐行して通った場合(たとえが極端すぎか)、どんな感じの店先で、どんなポスターが貼ってあったか?  ぐらいはざざっと述べられる気がする。

いろんな店が立ち並ぶ商店街なら話は別だが、一軒ポツンなら脳へのインプットはけっこう容易に思われる。八丁峠の車は峠道で車通りがほとんどない中、たった一台で止まっていたわけで、車の知識がある方なら、記憶に留めるのは容易だろう。

後者の「車体にラインはなかった、はおかしい」はちょっと違った意味での指摘だが、これも何人かのYouTuberが話すように、「目撃者は自分からスムーズに淀みなく話したわけではない。警察の質問ありきで順に答え、調書は、さも一人語りで語ったようにまとめられた」というのが実情だろう。あまりにシンプルでノープロブレムな話。

いや、唐突に「なかった」というのを述べるのは、さして珍しいことではない。たとえば、実際身近であった次のような会話。

「新しくできたあのスーパーに行ってきたんだって?」
「うん。思った以上に大きな店だったよ。イートインスペースもあるし使えるね。ただなあ……」
「ただなあ?」
「ニュータッチの●●(カップ麺)が置いてないんだよ」
「そこかい(苦笑)」

自分の中で特に関心のある事項があって、それに照らし合わせて、それ基準で物事を判断判定するのは、そう珍しいことではない。「なかった」は不思議ではない。

久間元死刑囚が乗っていたマツダの『ウエストコースト』。特徴の黄色とオレンジ色のラインは気に入らなかったのか、剥がして乗っていたという

弁護団に言わせると、「元死刑囚所有の車にラインがないことを知っていた警察側の誘導があったのではないか?」とのことだが、上の画像のようなラインがあれば「あった」と言うし、なかったなら「なかった」と言うだけ。特に不審はない。車に詳しくない自分でも、ラインの有無ぐらいは言える気がする(あらためて言うが、止まっていた車は峠道にポツンと一台だけ)。逆に、車に細かい配色の塗装やデザインがなされていたとして、それを事細かに証言したとかであれば、怪しいと言わざるえない。


話は変わって。最近、周りから「なんで、急に飯塚事件に凝り始めたのか?」と聞かれるわけだが──。
事件の残忍性、特殊性、死刑執行に至る経緯への関心(風化させてはならない)もさることながら、それには一つの明確な理由がある。

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