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女装を嗜む井川さん(第2回):二男・涼太の場合

「すずちゃん、今日はもう大丈夫だよ。お疲れ様。」
時計をふと見てママはそういった。そんなママの言葉に、
「えぇー、今日上がり?せっかく来たのに。」
とカウンターで飲んだくれている中年男がぼやく。
「ごめんなさい。また今度お酒ご馳走してね。」
中年男の言葉をさらりとかわし“すずちゃん”と呼ばれたスタッフは、にこやかにプライベートルームに消えて行った。


ロッカーから荷物をとりだすと、足早に裏口から退勤する。
「さて、帰るか。」
彼女…いや彼は井川涼太・29歳。平日昼間は会社に勤め、週末は涼香という名前で女装バーのスタッフとしてアルバイトをしている。釣り目を活かしたきつめのメイクは、学生時代に所属していたヴィジュアル系バンドの経験を活かしたものだ。スレンダーなルックスと、タイトなファッションを好むため、女装して繁華街を歩いているとしばし声をかけられることもある。

この日はオープンから終電までのシフトで、自宅に戻ってきたのは深夜1時を過ぎていた。「おかえり。今日は終電シフトなんだ。」
リビングに入ると、兄の春樹が茶漬けをすすっていた。
「兄ちゃん今夕飯食ってるのかよ?」
艶やかな見た目からは想像がつかないほど、家に入ると途端に口調が変わる。そんなことは今に始まったことではなく、家族は誰も気にしていない。
「今日は夜からライターさんの原稿を修正しててさ。気づいたら今になっちゃった。」
にこにこ美味しそうに茶漬けをすする兄を見て、涼太はのんきそうだなと思った。
「こんな時間に食ってたら太るぞ。」
「わかってるんだけどさ。やっぱりちょっと口がさびしくなるわけよ。涼太も食べる?」
そういうと春樹は食べかけの茶碗を涼太に差し出そうとした。
「いらないよ。店で飲んでお腹たぽたぽだし。俺も最近痩せにくくってさ。」
涼太は自分のお腹をポンと叩いて笑う。
「どこが。母さんに似て食べても食べても太らないんだから、羨ましいよ。」
ずるずるとお茶漬けを流し込んだ春樹は、涼太の顔を見て
「お店もう慣れた?」
と尋ねた。
「慣れたどころじゃないよ。化粧もバンドしてた時より上手くなったし。会社行くより割がいいなって思う時もあるし。」
涼太がお店で勤務を勤めた理由は、もともとは小遣い稼ぎであった。趣味のベース欲しさに、雀の涙ほどの会社の給料に加え、店での給料をベース代に充てていた。
「この間も何か機械買ってたけど、そんなにお店って稼げるの?」
涼太の話に春樹は興味津津だ。
「俺も会社と店の給料貯金してやりくりしてんだよ。今は週末勤務だけどさ、フルタイムで店に入ったら今の会社よりもらえるんじゃないかって考えたりもするよ。」
「そんなにあんたの会社って危ないの?大丈夫なの?!やっぱりあんたも何か資格とった方がいいよ!!」
母親のような口調で春樹は言った。
「お母さんみたいなこと言うなよ!まぁな、いざとなったら考えるよ。」
「簡単に言うけどね。お店のママとかって結構大変なんだよ。軽い気持ちでお店で働きたいとか考えたら痛い目見るよ。」
春樹はそう言って食べ終わった茶椀を洗い終えると、「じゃ、おやすみ」と自分の部屋へ戻ってしまった。


「そうだよなぁ…」
リビングテーブルに腰掛けると、涼太は自分の鞄の中からお店と会社の給与明細を取り出した。涼太は現在入社7年目。入社時からさほど給料の上昇もない。賞与も支給されるが、二期連続で減額となっている。もらえるだけありがたいが、年齢的にもいつまでもこの会社で勤務するのかと考えると迷いが生じてしまう。
バンドはあくまでも趣味でお金を稼ごうとは思わない。ただ現在の状況を考えると、女装としてお店で働いてもいいかなという気持ちが時折のぞかせる。


(このまま女装でスキルを高めて仕事にしちゃうっていうのも悪くないのかな)
本気半分嘘半分にそんな思いがよぎりつつ、しわの寄った給与明細を封筒にしまった。

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