見出し画像

No.468 小黒恵子の投稿記事-34 (テレビCMの功罪)

 こんにちは。小黒恵子童謡記念館です。

 様々な新聞記事等をご紹介しています。今回は、新聞に紹介された小黒恵子氏の投稿記事 私の意見 をご紹介します。

私の意見  ~テレビCMの功罪~
                         小黒恵子

 世はまさに情報時代である。アイデアの勝負、華やかな売り込みの勝負の時代である。
 テレビのチャンネルをまわすと、その瞬間、好むと好まざるとにかかわらず、何かのコマーシャルに必ずと言ってよい程ぶつかる。
 今やテレビコマーシャルは、当然のことのように生活の中に溶けこんでわれわれの良きアドバイザーである。
 同じような商品でもコマーシャルで常に存在を示してる会社の商品の方が安全と思うし、信用するのが人情である。つまりテレビコマーシャルは人間の不安定な弱い心理を巧みに利用しているわけである。
 それらのコマーシャルの中から結構うまく自分にあったものを選択しているのではないだろうか。四季の変化によってテレビコマーシャルも変わってくる。化粧品服飾品などの顕著な例で限りない美への欲求に夢を与えてくれるわけである。
 いずれにしろ、どのコマーシャルも変わるからよいのであって同じものばかりではやりきれない。だが、なかには永遠のコマーシャルと呼ばれる文明堂のカステラなど、別段気にならないのはすぐれているゆえんであろう。
わたしの友人で民間テレビは余程の番組でない限り見ないと言うNHK崇拝の変人がいる。
 その理由はドラマの流れの中に浸っている時、全く突然、関係のないコマーシャルがポンと飛び出してくる。ドラマの中からいっきょに現実に呼び戻される、それが人を小バカにしてると言うのである。
 と同時に時間の進行と精神の進行の連続性をさまたげると言うことは体によくないと言う。真夜中の迷惑な電話と同じであると言う。
 それらの理由をうなずけない訳ではないが、わたしはドラマの流れの中でコマーシャルがはいることによって心のほぐれを感じるのである。
 「感じる感じる幸せ感じる朝 ジョージア ジョージアだれのもの・・・・・」さわやかな画面、快い歌、ドラマから受ける精神の緊張感を和らげてくれる。くつろぎながら茶の間で見ているとは言え、やはり時間的、精神的な休憩、いきぬきが必要である。
 だがテレビコマーシャルも気のきいたさわやかなものばかりとは言えない。日本語を乱すようなものもある。例えば外人タレントが変な発音で「ヤマチャーン」なんて下品にやられるとゾッとするし、夜のテレビコマーシャルの中には大胆なポルノ的なものもありいやな気分にさせられるのはわたしだけではないだろう。
 商品にスポットライトをあてる気のきいたキャッチフレーズ、あるいはまったく無関係でありながらその商品をイメージアップするユーモラスなコマーシャル、それによって言葉の再発見をして、その言葉を日常の会話の中にウイットとして楽しむことも出来る。
 最近では「苦労しました」と言うラーメンのコマーシャルは、結構使ってたのしめる言葉である。以前やっていた石けんのコマーシャルで「こんなかっこうでシツレイシマス」なかなかの傑作である。あの当時、わが家では、まっさきに九官鳥が覚えてしまって、得意になって朝から晩まで一日中「シツレイシマス」を連発していた。
 そのうちに家中が、まねしてる中にすっかり口ぐせになって子ネコの前を通るにもちょっとかがんで「シツレイシマス」
 大人ばかりのわが家に、笑いをまきおこしたテレビコマーシャル、また楽しからずやと言うところである。
                 (詩人、川崎市高津区諏訪一一一)

(新聞社不明) 昭和50年(1975年)7月1日

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 次回は、1972(昭和47)年に、新聞に紹介された記事をご紹介します。(S)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?