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冒険家の存在意義とは何か?

冒険の意味?

冒険や探検に対して、「意味」「価値」というものを付随させて考えることが多くある。

「そんなことやって何になるの?」

「今さら未知の場所なんてないでしょ。時代遅れ」

冒険や探検をしない人からしてみれば、あえて危険(に見える行為)を望んで行うことが理解できないため、きっとそこには特別な理由があるからに違いない、その理由とは何なんだろう?そこにどんな意味を持っているのだろう?という疑問が出てくるのだが、考えてもよく分からないので「意味ないじゃん」と切り捨てる。

16世紀以降の大航海時代、ヨーロッパから新世界に人々を向かわせた原動力は「3つのG」だと言われている。「Glory(名誉)」「Gospel(宗教)」「Gold(経済)」その3つのGこそが大航海時代における「探検の意義」であり、探検家の存在意義だった。スペインやポルトガル、その後に続くオランダやイギリス、フランスなどは世界に覇権を広げることが生存することであり、その先遣隊として活躍したのが探検家だった。

探検は科学の発展とも密接な関係がある。地質学や民族学、天文学や海洋学など様々な知見の発展のために探検家が一役買い、やがて時代と共に探検家を派遣する主体が小さくなって行く。

時代に伴う探検の変遷

かつては「国」単位で行っていた探検事業が「企業」単位となり、20世紀になるとやがて「個人」単位となった。今はまさに、探検や冒険は「個人」の時代である。なぜ主体が小さくなってきたかと言えば、科学技術の発展で、航空機でどこでも気軽に移動できることや、通信機器の発達などが要因だろう。

今の我々と、大航海時代の探検家の何が違うのか?と言えば、一言で「時代が違う」だけだ。「大航海時代の探検家たちは」と話を展開するとどうしても国家の利益や政治事情が話題の俎上に上がってしまうので、主語を小さくして「コロンブス」「マゼラン」などと個人として見ていけば、彼らの行動原理は「自分が謎を解明したい」「誰も行っていない場所に行きたい」そんなシンプルな理由だったはずだ。そんな動機を持つ個人としての探検家を、大きな主語の組織が先遣隊として利用し、また探検家個人も自分の野望を果たすために組織を利用し、言わばウィンウィンの関係で探検事業が成り立ったと言える。

19世紀、イギリスの著名な極地探検家のジョン・ロスは、北極圏を通過する「北西航路」探査のための探検の是非を問う聴聞会で「北西航路の開拓はどんなメリットをもたらすか」と問われて「私はそれには何の社会的価値もないと断言する」と言い切ったと言われる。そんなところに航路を発見しても、実用性はないと言った。しかし、それでもロスは北西航路の探検に行き、探検の最中に死亡した。また、同じイギリスの極地探検家フランクリンは、すでに英雄として確固たる立場を築いていた59歳の時に、新たに派遣される北西航路探検の隊長として名乗り出て、同じく北極圏で死亡している。

彼らは、おそらく「居ても立っても居られなかった」だけなのではないだろうか。誰かが行く、それは誰だ、俺だろう!!そんなシンプルな動機だ。そこにあるのは「何々のため」といった明確に言語化できる万人に理解される社会的理由ではない。19世紀までの探検は「行為の前に意義や価値を見出しやすかった」だけのことではないだろうか。今よりもまだ探検行為に対して社会的な要求があったのだ。しかし、その場に行く個人の心理としては社会的要求とは別の場所にあったと私は思う。

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冒険探検への社会的要求

今の時代、我々が行うような探検や冒険に対する社会的要求は基本的には存在していない。残されたのは、ずっと昔から変わらない「居ても立っても居られない人たち」だけだ。個人の冒険や探検は「行為の前に意義や価値を見出しにくい」ものである。だからこそ、周囲の人たちは「なぜそんなにしてまで行くんだろう」と疑問にも思うし「そこにどんな意味があるのか」と問う。

地理的な未知があまりにも乏しくなってしまったため、それでも行こうとする人たちは「○○初」「最年少」「最年長」などといった位相に社会的な意味がありそうなワードを無理やり組み込み、重箱の隅をつつくような行為にしか活路を見出せなくなってしまった。

地上に空白地が無くなった今、人類は宇宙にまで新しい空白地を目指し始めている。火星への有人飛行は夢物語ではなく、極めて現実的な「目標」として語られている。もし、これまでの時代の中で「探検には社会的要求は無くなったので、金輪際探検家は不要です」と宣言されていたら、いま宇宙を目指す人はいなくなっていただろう。

火星を有人飛行で目指すというのは、大航海時代のマゼランによる世界一周航海のようなものだ。その行動原理とは何か?個人の夢やロマンだけではなく、極めて現実的な大きな主語による政治や軍事や経済が密接に関係している。私は、これから人類に起こることのあらましはすでに歴史によって述べられていると思っている。これから先、宇宙での大航海時代に起こることは、過去を知ると予測ができるだろう。

人類的な発展という大きな主語は、極めて小さな主語である個人の集合体であり、個人の冒険心なくしては人類の発展も望めない。

探検家や冒険家の存在とは、人類が根源的に持っている挑戦心を具現化した、一見無用で微細な存在でありながら、普遍的な存在でもあり、その存在こそが人類の可能性の「指標」となるのだと思う。

そのような意味で、冒険家や探検家の存在意義とは「存在自体」であると思うのだ。社会的要求とは、時代ごとにおける探検の利用方法の方便に過ぎない。

個人と社会の関係性

「個人の挑戦心無くしては人類の発展はなく、人類の発展がなければ個人の挑戦も具現化しない」ということだ。ニワトリが先か卵が先か、どちらが先でも後でもなく、共にあるのが個人と社会の挑戦心の共助関係である。

地図上に未知がなくなったから探検が不要であるとか、そのような議論は極めて表面的な話でしかない。探検に行って何かを発見することが重要なのではなく、探検に行こうとする連綿たる歴史こそが重要であり、その姿勢にこそ価値がある。

ただ、実はこれは「覇権主義に根差す西洋的探検のコンテクスト」における価値であり、東洋的日本的な思想に関しては、また別にあると思っている。それはまた別の機会に。


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2000年よりカナダ北極圏やグリーンランドで徒歩を中心とした冒険を行ない、これまで北極と南極を10000km以上を踏破。新刊「考える脚」2019年3月27日KADOKAWAより。日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功。第22回植村直己冒険賞

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コメント (2)
植松努さんとのTEDコラボを拝見いたしました!
聞いているだけで、ワクワクしてきました♪
植松努さんの心意気のアツイ気持ちが、憎いですね。
信頼しあってるんですね。
応援してます。
人類の歴史は冒険の歴史だと思います。どんな時代でも「未知の領域」は無くなりませんものね。新しい時代に適応していくのだって冒険です。
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