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獲得とは喪失である。「得ること」と「得ようとすること」

私はこの20年、北極を中心に主に単独徒歩による冒険を繰り返してきた。

22歳で北極の冒険を始め、今では42歳。あっという間の20年だった気がするが、これらの日々は全てを克明に思い返すことができるくらいに、濃密だった。

若い頃、ひたすらバイトに明け暮れて、その資金を持って北極に行き、全てを使い果たして無一文で帰国し、再びバイト漬けの日々を送って翌年また北極へ、そして全てを使い果たしてまたバイト漬け、また北極に行って全てを使い果たし、で、またバイト漬け…というサイクルを毎年繰り返していた。

全てのエネルギーを北極に行くことに注ぎ、当たり前だがバイト漬けの日々の中には「休日」なんてものは存在しない。スキあらば日雇いの仕事を入れ、寸暇を惜しんで資金稼ぎに勤しんでいた。もちろん友達と遊びに行くとか、飲みに行くとか、旅行に行くとか、そんなものに使う金はない。というか、時間がない。

そんな日常が、それはそれは楽しい日々だった。仕事は仕事で楽しく全力で働き、自分がなぜ、いま、ここで働いているかが極めて明確だった。いま、自分が存在している理由が明確だった。朝目が覚めて、飯を食い、クソをして、仕事をして、呼吸をして、夜寝ることの全てが明確なのだ。

それは、生きている手応えだとも言える。

そんな日々に、将来の不安であるとか、老後の心配であるとか、周囲の目が気になるとか、そんなものはまっっっっっっっったく1ミリも存在していなかった。考えることはあったかもしれないが「ま、なんとかなるよ」で済まし、また同時に「俺ならなんとかできる」とも思っていた。

北極に行くために日本で送っているそんな日常とは、自分にとっては「北極に行くことの連続性」の中にある行為だった。そう、身は日本にいながら、すでに自分は北極にいたとも言える。いや、もしかしたら、正確に言えば、日本であろうが北極であろうが「全てを自分のいる場所」に変えていたのかもしれない。

そうやってバイト漬けの日々から、実際に物理的な北極の旅が始まる。準備を行い、日本を出発し、北極圏に入り、遠征を行う。それらはバイト漬けの日々から途切れることのない連続性の中にある。「いま自分のいる場所」という連続性だ。

北極を歩くためには、毎回「目標」を設定する。去年はあそこのルートを歩くことができたから、今年はあの村から南に下った1000km先の村まで、無人地帯を行ってみよう。そんな目標を設定し、そのために準備を進め、実行する。

冒険の日々は過酷な毎日だ。ブリザードに翻弄され、極寒の中で生活し、ホッキョクグマの襲来に怯え、一人で1〜2ヶ月間、そりを引きながら延々と移動生活をしていく。そんな毎日の中で思っていることは「なんでこんな辛いこと始めちゃったんだろう」「早いところゴールしたい」「もう二度とこんなことやらねぇぞ」と、そんなことばかりだ。

そして、長い旅が終わりを迎える日が来る。目標にしていたゴール(主に集落など)に到着し、明日からもう歩かなくてもいいんだ、という安堵感に浸る。その瞬間、一つの目標を達成し、自分はここまでやることができた、そんな実感を得る。この1年間、バイト漬けの日々で資金を作り、装備を準備し、衛星写真を観察して海氷状況を勉強し、様々な事務手続きなども行いながら、この遠征を結実させることができた。一つの目標をやりきった、そんな手応えを得る。

しかし、である。そんな「獲得」の直後に、いや同時に起こる心理作用は「喪失感」だった。

この1年間、自分の存在理由は明確だった。何のために働き、呼吸し、飯を食い、なぜ生きているのか、理由は明確だった。全ては「北極を歩くため」だった。そのために目標を設定し、走ってきた。

いま、目標に辿り着いた瞬間、走る理由を失ってしまった自分に気付く。明確だった日々は過去となり、いまこの瞬間から自分に待っている未来は、走る理由を失った喪失の未来だけだ。

人は「獲得」を「得ること」であると考えるかもしれない。しかし、私にとって「獲得」とは「得ようとすること」である。「得る」という結果を獲得することは「得ようとする」体験機会を喪失することに他ならない。

「得ること」は結果であり「得ようとすること」は過程である。

私は、結果に辿り着きたいのではなく、過程の中に身を置いていたいのだ。

過程の中に身を置くために、結果というものを仮託する。重要なのは、結果ではなく過程である。正しい過程に身を置くことで、結果はチェックポイントのように人生の中に「結果的に」登場してくるだけに過ぎない。

一つの目標をクリアし、1年をかけて準備してきた遠征が終わったことで、自分が生きる意味を喪失した私は、ゴール直後に「さて、来年はどこを歩こうか」と考え始める。歩いている間は「もう二度とやらねぇぞ」なんて思っていたクセに。

結果というものは重要だ。だが、結果は重要ではない。結果は仮託に過ぎない。過程を仮託としてしまえば、人は確実に誤る。しかし、社会生活において、人はその結果と過程の関係性を見誤る。

いま、私は同じ連続性の中にいる。若い頃とはやり方は変わってきたが、今でも「いま自分のいる場所」において「いま自分がやるべきこと」を行なっている。

正しい過程は、正しい連続性を生む。正しい連続性は、正しい結果を生み出す。結果を求めるのであれば、過程の中に身を置く姿勢を忘れてはいけない。

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