青木保「文化の翻訳」を読む

文化庁長官や、国立新美術館館長などを務められた人類学者の青木保さんによる著書「文化の翻訳」を読んだ。

これは、1978年に初版されたもので、当時40歳の青木さんによる人類学者として異文化世界に入り込むジレンマを、これでもかと思索を深掘りした記録だ。

冒頭の章「異郷の神を畏れつつ」では、漆黒の真の「闇」に包まれる、山深いタイの僧院での体験が綴られる。

タイでは「ピィー」という「悪霊」の存在が語られる。青木さんによれば「ピィーは英語ではspiritとかghostとか訳されているが、日本語でも精霊とか霊、また悪霊などということはできるけれども、そのいずれもがタイ文化のコンテキストにおけるこの語の意味の全体を伝えるものではない。ピィーという語はいうならば文化の核を表現する語の一つであって、いわゆる多義語である。だから、前記のような訳語も各々一部の意味は伝えていても、それでピィーを了解したというわけにはゆかないのである。」と語る。

そして、続いてこうも語る。

「しかも、この語を理解するときに、ちょうど私が北タイの森の中で体験したような、単なる言葉としてではない、事物ー環境と行動の全体的な繋がりの中での了解という点を含めないとすれば、それは結局のところ「死語」の理解であり、辞書的な移し変えにしかすぎず、文化の意味は抜け落ちてしまう。言葉は肉体をもっているものだから、物の付随しない言語の理解は単なる形骸にしかすぎないのである。」

異文化世界に入り込み、その世界を人類学者として「フィールドワーク」する行為というのは、自然科学の世界で言われる「観察者効果」と似た構造がある。実験室の観測機械で何か微細な物の観察を行うとき、観察者による行為が観察対象に影響を及ぼしてしまい、正しい観測ができなくなる効果を言う。

フィールドワークも同じで、異なる文化を持った集団の中に、絶対的に「異質な他者」である観察者が入り込むことで、観察対象者に影響を及ぼしてしまうことのジレンマがある。

植民地支配や布教活動などの動機に端を発する西洋的なフィールドワークにおいての「理解」という行為は、自分たちの西洋科学の常識という物差しを使い、その尺度に照らし合わせて了解していくものだった。

しかし、前述の「ピィー」に表されるような、どうやっても違う文化的背景を持った「異質な他者」には了解できない領域があることを知る。

「日本や欧米で受けた「教育」というものの絶対的優位を信じ、そこで得た知識と技術をもってすれば何事も解らぬものはないという満々たる自信の中に生きる人間たちにとっては、割り切れないものはそもそも「存在」するものではありえない。彼らにとってはすべての現象は合理の旗の下で切断され収拾されるべきものなのだ。」

「自分もまたこれまで受けてきた「教育」の射程の万能を信じて、「知識」として受けとってきたことの中ですべてが処理できるものだと信じ、また「知識」によって対象を切断することこそ「理解」であると考えて知的な充足を感じることに喜びを見出していたのである。」

この辺りの文章を紹介するだけで、この書の思索の深さが伺えるであろうから、これ以上は私の口からの紹介は無用だろう。

私は最近、異文化間における「冒険探検」のコンテクストの違いに興味がある。もし我々日本人が、タイの山奥に行って不思議な体験をしたとき「悪霊を見た」と言っても、それは同じ場所でタイ人が感じる「ピィー」の存在とは異なるはずだ。また、米国人が同じ場所で「ghostを見た」というのも、同じ場所で同じ体験をしていても表現される「悪霊、ピィー、ghost」はそれぞれ異なっているはずだ。それは「冒険や探検」という言葉においても同じだと感じている。

昨日、アメリカ出身の翻訳者の方と立ち話をしているときに「日本語と英語でいちばん印象が異なる単語って何ですか?」と聞くと「やっぱり、桜ですね」と返答があった。

日本人の「桜」とアメリカ人の「cherry blossoms」は、同じ桜の樹の下に同時に立っていても、全く心象風景が異なることは、説明するまでもないだろう。

言葉というものは、説明的な道具だ。言葉によって、人間は事物を切り刻み、どんどん分節させていく。本来、日本人とアメリカ人の間に「桜」の違いはないはずなのだ。

「桜」とは何か?桜とは「花」である。

「花」とは何か?花とは「植物」である。

「植物」とは何か?植物とは「○○」である。植物の明確な定義を知らないw

「○○」とは何か?それは物質である。

「物質」とは何か??????

こうやって、分節を遡っていくと、すべてのものは「存在」であり、また「存在以前」にもなってしまう。それは、主体(精神)と客体(物質)の分節の旅路であり、物質と精神の分節以前の瞬間である「いま」見ている「桜」には、万人にとっての差異はない。

「文化の翻訳」の中でも、主観と客観の対立に関して考察が述べられる。

「すなわち、それは知識を得、資料を蒐める研究主体自身が研究の対象との問題提起的な相互交流関係に入ることを意味する。そこにおいては主体ー客体の区別が拒絶され、その替わりに相互交流過程の世界が出現する。(中略)いまやフィールドワークは調査ではなく経験となり、この人類学的経験は現象学的レベルのものとして捉えられることによって「相互主観性」の問題として位置づけられずにいないのである。人類学者が観察し資料を蒐める「対象」は、「相互主観」的な交流の中から出現してくるべきものであって、それ以前の一方的な直流経験に基づくものであってはならない。」

「客観性は理論上の論理的整合性にもあるがままの資料にも存在するものではない。まさにそれは人間の相互主観性の基盤の上に成立するものである。」

知性とは何か?科学とは何か?他者とは何か?自身とは何か?あらゆることを教えてくれる本だ。


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