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人は身体性によって無自覚に未来を先取りしている

この一週間は、ネットでの講演と対談が連日続いた。対談2本、講演2本をオンラインで行い、今まで不慣れだったzoomの扱いにも急に慣れてしまった。

昨日は旭川での講演だったのだが、何を喋ろうかと一週間くらい前からずっと考えていた。

その講演の中に、少しだけ「ソマティックマーカー仮説」という話をした。

これは、神経学者のアントニオ・ダマシオが提唱した説で、人の意思決定には身体性を伴った「情動」が深く関わっているというもの。人が理性的な意思決定を行う時、自覚的な熟慮の選択に先立って、無自覚な予備選抜がすでに実行されており、「情動」がこの無自覚の予備選抜に大きな影響を与えている、というものだ。つまり、人は何かを決断する時には、決断するべき候補が無数にあるはずにも関わらず、知らぬ間に候補は絞られ、その段になって取るべき選択肢は限りなく決まってくるという。

アントニオ・ダマシオ「生存する脳」

自分でもまだ勉強中なので、昨日の講演では上手く言語化できなかったのだが、どうにもこれまで自分が感じてきた事に、この仮説が上手く合致していきそうな気がしている。

これまで北極や南極を冒険してきて、極地で危ない場面であるとか、一歩の選択に迫られる時は確かにあるが、あまり迷ったことはない。踏み出す一歩の理由は常にあり、この場面で右足を出すか左足を出すか、それによって物理的に運命が変化する状況もあるのだが、実際には現場でどちらの足を出してどこに置くべきかは、もう分かっている。

社会においては、冒険のために自分で資金を作ったり人から集めたり、いろいろな場面を経験してきたのだが、自分の場合「あぁ、ここでこんな人が目の前に現れてくれたらいいなぁ」という人がドンピシャのタイミングで現れたり、また「あぁ、ここではこんなことが起きたらいいなぁ」ということが実際に起きたり、そういうことがとにかく多い。

その「必要とする時」の遥か以前の段階で、自分が取るべき行動が分かっており、いざ「その時」が来た時にはすでに準備が進んでいる、という感覚がある。

それは、自分にとって都合の良いような未来になるように、ということではない。自分の都合の良いような展開を「起こす」訳ではなくて、「起きる」という感じだ。なるべくして、なっている。でも実は、起こすべくして起こしている。

言い方を変えれば「そうなることは分かっていた」という事だ。そこには決断も、判断も伴っていない。100の選択肢があったとしても、どの道を選べば良いか、その時自分が取るべき行動は何であるかが、決断以前の予備選抜でふるいにかけられ「そうとしかならない」ようになっていく。

「あ!それっていわゆる引き寄せの法則ですね!」ではない。引き寄せの法則ってのがなんだかはよく知らんが。勝手に斜めに見ているだけかもしれない笑。というか「引き寄せの法則」というものを口にする人に、あまり良い印象を持っていないだけかもしれないが。

自分自身を、能動的な待機状態に置きながら、未来に対して投企していくと言うか、未来から自分への働きかけがある、という感じである。

自分が何か事を起こそうとする遥か以前から、身体と脳内ではすでに準備は行われていて、実際に事を起こそうと意識された時にはあらかた準備が進んでいる。そんな感じだ。

ダマシオによれば、これは身体を通した情動が脳に大きな影響を与えているという。つまり、身体性を高めていき、高度な身体感覚を持った人はより高度な予備選抜が可能となっていく、ということに他ならない。

その感覚は、仏教的に語られれば縁起や阿頼耶識といわれるものかもしれないし、それなら2000年前から言われているが、脳科学的に言えばソマティックマーカーかもしれない。社会科学や社会心理学的な説明手法もあるのかもしれないが、全ては「説明言語」の違いでしかなくて、根本はきっと同じ事を言っているのだろうと思う。

いま、自分は「冒険」という手段を駆使して、それらの説明言語を横断的に述べたいと思っているのだと、気がついた。人類が普遍的に持っている感覚を使う事で、横断的な思考ができるのではないかと思っている。

冒険とは、あらゆる経験を身体的に捉え、そして言語的に述べる事であると感じている。

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