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人はなぜ冒険するのか?を考えていく

noteを始めてみようと思う。

テーマというか、大きな流れとしては「人はなぜ冒険するのか?」ということを、毎日考えを巡らす中で思うこと、気付いたこと、印象に残る本の一節、それらをピックアップしながら、とりあえず思いついたことを書いていきたい。

最近は本をたくさん読むようにしている。

なんとなく、この大きなテーマの回答へのヒントとなりそうな、そんな本だ。

都度の思いついたことを書いていくので、そのうち「前に書いてたことと違うこと言ってんじゃん」という事態も起きてくるだろうが、それは仕方ない。

書きながら、考察しながら想いを深めていこうという狙いがある。

江戸末期から明治初期にかけて、日本を訪れた外国人が書き残した、彼らから見た当時の日本についてまとめた本である、渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んでいると、こんな一文に出会った。

「ある異文化に対して正しく接近する前提は、それが観察者の属する文化のコードとはまったく異質なコードによって成り立っていることへのおどろきである。」

文化によるコードの差が存在する。

日本人が「月」を見る時と、アメリカ人が「moon」を見る時、見ている月とmoonは物理的には同じものだが、心に浮かぶ心象風景には差がある。「花」と「flower」も、心象風景に差があることだろう。「自由」と「freedom」であるとか、「魚」と「fish」ですら違うだろう。

どうしても乗り越えられない、個々人が生まれ育ってきた環境によって心に刻まれた観念意識の差が存在する。それがコードだと理解する。
同じ事物を眼の前にして、異国人同士が向き合っていても、実は同じものを見ていない。

「冒険」「探検」も同じだと思う。
英語で「exploration」「adventure」などと発する時、そこに描かれる心象風景や観念意識は、日本人とイギリス人の間において決して同じではない。
日本の大学探検部員は、酒を飲むとやたらと「探検と冒険の差異」に関して喧々諤々の議論をするらしいが、果たしてイギリスの探検部員は、日本的意識に相当する「冒険と探検」に関して言語的な差異を設けようとするのだろうか?そこに関しては知らないが。

現代の探検は、基本的には大航海時代以降の、西洋列強諸国の覇権主義の名残が未だに根強くこびりついている。未知とは外にあり、手近なところが制圧されればその先へ、その先へと世界の地図を塗ってきた。そこに経済や科学や宗教が原動力となり、科学の発展、経済の発展、宗教の拡大こそが正義であるという観念意識がコードとして形成されてきた気がする。

日本が西洋的な「探検」というコードに触れて150年ほどだ。果たして、日本においての「探検」「冒険」のコードとは何なのだろう?というのが、目下の自分の考えの主題である気がしている。

確実に影響しているのが、日本古来の神道や、空海最澄のもたらした真言密教や天台密教、それらが融合した修験道、鎌倉時代に起こった各仏教宗派、平安時代に形成された日本人の美意識と日本文学、幕藩政治からの封建主義社会、日本という土地そのもの。

しっかりと自分の考えをまとめていきたい。

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