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テッドチャン「息吹」と自由意志の問題。 「わたし」の物語

「わたし」とは一体何なのか。つまり意識、意志の問題。それは誰しもが一度は考えたことがあり、見えない答えのため次第に考えるのをやめてしまう問題だ。

人生とは何なのか、幸せとは何なのか、突き詰めると「わたし」とは何なのかという問題に対し、テッドチャンは小説というメディアを使って僕たちに一つの答えを示してくれる。

テッドチャン短編集「息吹」

テッドチャンの17年ぶりの短編集であり、なんとこれが2作目だという。寡作な作家だ。寡作ゆえか短編を出すたびSFの偉大な賞を総なめするほど個々の短編のクオリティが高い。

テッドチャンの小説の中で特に取り上げられるテーマは、「自由意志」と「決定論」だ。

前作「あなたの人生の物語(映画ではメッセージ)」は時間という概念がない生物の新しい言語を言語学者である主人公が獲得した結果、時間に関する認識に変化が生じ、自由意志という概念が揺らぐ話だった。
これは言語が思考を規定するというサピア=ウォーフ仮説に基づいた物語だ(言語相対性論)

こうしたように、テッドチャンはサイエンスやテクノロジーを上手く小説に落とし込んで、自由意志のあり方を問うことが多い。

今作の短編集の中の「商人と錬金術師の門」、「予期される未来」、「偽りのない事実、偽りのない気持ち」、「不安は自由のめまい」も自由意志のあり方を問う物語だった。

「商人と錬金術師の門」はスチームパンクの世界観でのタイムリープもの。
「予期される未来」では自由意志が否定された世界での私たちの行動を書いている。
 「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は過去の記憶をすべてデバイスに保存できる(作中ではライフログという)世界での、社会のあり方。
「不安は自由のめまい」では、異なる世界線と通信でのやり取りができる世界での意思決定を描いている。

その多くの答えが、自由意志は存在しない。つまり決定論に落ち着くことが多いのだ。

果たして人間に自由意志は存在するのだろうか。私が決定しているものははたして本当にわたしが決定しているのか。


ベンジャミン•リベットの実験というものがある。脳や体から発する電位を測定した実験だ。
人間が指を「動かそう」と決意した瞬間と実際に指を動かすために脳のある部位が動かす「準備」に入る瞬間を測定し、どちらが早く発するか調べる。

普通に考えると、指を動かそうと決意した瞬間があり、そのあと動かそうと準備段階に入るはずだ。しかし結果は、逆になったのだ。実験では、指を動かそうとする準備段階があり、その後「指を動かそう」という決意が生じるのだ。

この実験から言えることは、決意、つまり自由意志は、何かを行動しようとという脳の活動があった後、あたかも自分が「行動した」と決意した様に錯覚しているに過ぎないのものということだ。

受動意識仮説というものがある。意識とは、脳の中での判断と行動が起こった後、あたかも「わたしが動かしたと」と思い込むために存在するものでしかないという仮説だ。
つまり「わたし」たちに意識があるのは、脳が先に何かを聞く、何かを味わう、何かを見るという感覚、次の行動は何をするかなどの判断を行い、最後の段階であたかも「自分が決意した」と思い込むために存在している。
意識は能動的ではなく、受動的なのだ。
意識は何かを決める「司令塔」ではなく、あくまでも意見をまとめ上げる存在でしかない。意志は独裁政治的ではなく、議会制に似ているのだ。

このように自由意志、意識、つまり「わたし」というものの捉え方がが揺らぐ考え方がある。


ゼロ年代最高のSFをかいた伊藤計劃の「ハーモニー」はこのベンジャミンリベットの実験と受動意識仮説に基づいた物語になっている。またwebサイトでのエッセイ「人という物語」では先ほどの実験、仮説を分かりやすく解説してくれている。

また受動意識仮説を考えた前野隆司の公開講義もとても分かりやすく説明している


もし自由意志が存在しないのだとしたら。「わたし」というのはただの幻想なのだとしたら。はたして私たちはどのようにして「わたし」を扱っていけばよいのか。

テッドチャンはその問いにささやかな答えを提示してくれている。

テッドチャン「息吹」の感想でした。



テッドチャンと伊藤計劃は大学の生理心理の講義を受けていた際に教授が進めてくれて初めて知りました。教授が進めるくらい科学に基づいた作品なのかもしれません。SFの事をまとめ上げるのがめっちゃ難しいんで、間違いだらけかもしれませんが、気になったら読んでみてください。sfチックに書いてみました。






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