秦氏の研究

◆古代日本を知るためには、秦氏の存在が大きな鍵と鍵穴になる。秦氏といえば、天皇家に寄り添うことで日本をデザインしてきた藤原家の本来だ。
 
◆近衛文麿や熊本の殿様、細川氏へ、薩摩の島津氏も惟宗姓から秦氏へとつながる系図であり、源流を同じくする。もちろん人間の祖を辿れば、アフリカの一人の女性に辿りつくミトコンドリア・イブのことがあるが、そんな15万年前ではなく飛鳥から奈良時代にかけての話だ。

◆日本のグランドデザインを語る上で、どうしてもまとめておかなければならなかった秦氏。大和岩男氏の著書“”秦氏の研究“”で知った秦王国。そのシンボルである宇佐神宮を訪ねてみた。

◆大和岩男氏は、学者ではなく編集者兼青春出版や大和書房などの経営者でもあり、大量の歴史資料渉猟から学者にない視点からのアブダクション(当て推量)で歴史を紐解く。それはちょっと違うだろう!と、思うところもあるにはあるが、歴史はそもそも(His  Story)物語だ。

秦氏の研究

◆著書『秦氏の研究』によると、宇佐神宮で祀る八幡神は「八幡大菩薩」とも呼ばれ、伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けた最高の国家鎮護神。全国に流通してる八幡信仰はここからはじまった。また武家政権の最大の軍神だ。八幡は現在も全国に約二万四千という日本第二の分社を数える。ちなみに第一位は京都伏見稲荷大社を総社とする稲荷神社だが、こちらも秦氏との縁が取りだたされる。

◆宇佐神宮の本殿は、一之御殿には応神天皇、二之御殿には比売(ひめ)大神、三之御殿には神功皇后が祀られ、トップは応神天皇ということになっている。ところが、実際本殿に行ってみると、その配置が一般的でない。一般的は神社では、本殿に向かい一番格上が中央に配置されている。

◆ところが宇佐八幡では主神とされる応神天皇が左側なのだ。本殿左から、応神天皇、比売大神、神功皇后の順番だ。ここはどう解釈すればいいのか。もともと祀ってあった比売大神に後からやってきた応神天皇と神功皇后が祀られたということなのだろうか。

◆また神殿への拝礼は明治以降一般的に「二礼、二拍手、一礼」だが、宇佐神宮では「二礼、四拍手、一礼」で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけ。神殿も作法もとにかく格別なのだ。

◆まずは応神天皇だ。応神天皇とはどういう存在なのか、以前、大阪の堺市にある応神天皇陵を訪れたことがあるが、日本最大の古墳だ。

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◆宇佐神宮に同行した博覧強記の高橋秀元氏の研究レジュメによると、応神天皇の誕生譚は、朝鮮半島白村江に遠征した倭軍の部族の旗である八幡旗に降臨、神功皇后の胎内に宿り、生まれたのが応神天皇とされている。また応神天皇の生前の霊魂が、天馬に乗り宇佐近郊に御許山に至り、そこで天空の須弥山で修行していた弥勒菩薩の弟子になったというものまで様々だ。弥勒菩薩は朝鮮半島由来なので、妄想逞しくすれば、応神天皇は朝鮮半島からやってきたなどとするものもある。


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◆応神天皇の治世4世紀後半は五胡の乱に中原から韓半島に避難していた秦氏や阿知使主の渡来人を受け入れて国際化を推進した。

◆応神天皇の死後、応神霊は八幡神となり宇佐をさまよっていることになっている。

◆八幡神をウィキペディアで調べてみると八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集め。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され神社内に神宮寺が作られた。と、つまり八幡神=応神天皇だと。


 
◆大宝2年(702年)の戸籍台帳によると豊前の人口9割以上が秦氏だ。ちなみにネットで現在の大分県姓名ランキングを調べてみると、上位20名の中で、秦氏の系列といわれる藤原などの○藤の姓が6名もいる。他県と比べてもダントツである。

◆『隋書』倭人伝によると、608年小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」の存在を知らされたという。

◆「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前のエリアで、秦氏は秦の始皇帝の血を汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来したと自称していたらしい。

◆『秦氏の研究』によると「日本の中の朝鮮人の国“秦王国“」と右翼が聞いたらひっくり返るような章立てもある。◆八幡の由来には様々な説があるが、朝鮮半島・加羅国の祭祀との関係から、秦氏が半島から持ち込んだ外来神の可能性を示唆している。しかし、どこで応神天皇と八幡神が合体したの?

◆※蛇足だがいちき串木野市には秦氏説のある“徐福“の伝承と秦の始皇帝を祀った祠がある。

◆秦氏の渡来は年代にも渡来地にも研究者によって沢山の説がある。大雑把に言うと五世紀後半以降、全国各地に朝鮮半島から数度にわたり渡来した。宇佐に渡来したその多くの秦氏は新羅系加羅人ではないかと推測される。半島の混乱と宇佐周辺で産出する鉄に目を付けたのだろう。後に出てくる「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」、

◆歴史をさらに辿れば、秦氏の祖先は中国から畑作、養蚕、機織、銅などの鉱山技術、鍛冶などを新羅に伝えた。そして一条の流れは新羅を経て日本へと伝わってきた。

◆大和朝廷は銅の技術を持つ秦氏の一派を山背(今の京都)の地に呼ぶ。そのなかのひとり“”秦河勝“”は、山背国に太秦(秦氏の長)として本拠の広隆寺を建て聖徳太子に仕えたとされ、後に聖武天皇が東大寺の大仏を作るときにも大活躍する。
 
◆話は宇佐神宮に戻るが、豪族の連合体である倭(やまと)は、663年白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れ、逃げ帰った豪族連合は急速に「日本」という名で一体化がはじまる。いわゆる日本国のはじまりだ。◆その頃大神氏がこの宇佐神宮の宮司となり、それまでの宮司・辛島氏は追われそうになる。◆秦氏は当初、香春岳(元福岡県)山麓で銅を採掘していた。宇佐にはその秦氏一族である辛島氏が入植。香春岳近くの矢幡八幡宮が宇佐八幡の元宮で、その新宮として秦氏一族の辛島氏が宇佐神宮を建てたとされている。辛島氏と大神氏の宮司を巡る権力争いがはじまったのだ。


 ◆769年の宇佐八幡宮神託事件は、宇佐八幡より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとした事件だが、簡潔に言えば大神氏と辛島氏の権力闘争だ。「道鏡を皇位に」と託宣したのが大神氏巫女。それに対し、和気清麻呂が宇佐に参宮し再度の託宣でそれを覆したのが辛島氏の巫女だ。※岡山の和気氏も秦氏の一族の可能性もある。

◆清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り和気清麻呂は「大隅」へ配流となったが、773年には何と豊前国司に就き、大宮司は大神氏、少宮司は宇佐氏、禰宜・祝は辛島氏に世襲とすることでこの件は落着した。
 
◆秦氏の一部は、隼人の国大隅国にも移住した。527~528年筑紫野君磐井の反乱は隼人族であり、このときに福岡にいた主流の秦氏が応援したために、大隅に移住させられたと考えられる。隼人は朝廷と何度も戦った。この移住先である大隈でも乱(720年)がおき、辛島氏は神軍として従軍して、同じ大隅の秦氏を負かした可能性があり、このため、この供養として「放生会」が行われている。
 
◆大隅国に移住した秦氏の一族は大隅八幡宮(鹿児島社)を708年に創建した。その頃、宇佐八幡宮の権力が秦氏の一族から大神氏に移ったことで、秦氏が司祭する大隅八幡宮を、こちらの方が正統だ!ということで「正八幡宮」と名乗った。

◆大隅八幡宮や香春新社、宇佐八幡宮造営も含め、八世紀初めの動きはただ事ではない。太宰府の命で「秦王国」の人々の一部は、未だ朝廷に服さぬ「隼人」を懐柔するため大隅に移住してきた。◆南九州での薩摩・大隅国設置=隼人征伐は、外来神であった八幡神をニッポン神化し、これを先兵とすることで遂行されてきた。もとより南方だけのことではなく、北方の蝦夷へも征伐軍は進んでいた。
 
◆大隅国府を中心に移住してきた秦氏が多く住む地域には、西に大隅八幡宮、東に韓国宇豆峯社がある。韓国宇豆峯社と大隅八幡宮がセットになっている。「辛」ではなく「韓」の字が用いられているのは自らの出自を明示しようとする命名だろうか。
 
◆平安時代に作られた今昔物語の中に最澄が、遣唐使として中国大陸に渡るための安全祈願と帰朝報告の2回、参拝した様子が書かれている.なんと我が敬愛する空海も参拝している。そのへんを見ていくとどうやら遣唐使のスポンサーだったのではと、アブダクションできそうだ。

◆ユーラシア大陸を「パチンコ台」に見立て90度回転させてみると、日本は様々なルートから多様な情報を受け入れ、混沌を引き受け、バランスをとりながら一気に融合させる相当にハイブリッドな一番下の受け皿にも見えてくる。

◆秦氏をやりはじめると、西はミトラから古代バビロニア、東は京都仏教から島津の殿様と、ロマンは拡散していくので少しづつ文章化していきたい。


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