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【目印を見つけるノート】53. 時はつねに時で、場所はただ場所にすぎない

⚫きのうマスクが届きました

きのうは5回、救急車の音が聞こえました。
きのうのnoteで石の名前「ムーカイト」をヌーカイトと書いていることに後で気がついてこっそり直しました(てへ)。ムーカイト、あるいはモッカイトという石です。

ふっと、漫画『ギャラリーフェイク』(細野不二彦)のことを思い出したので31巻を見てみたところ、ありました。オーストラリアの先住民族のアートとエアーズ・ロックのお話。
あのお話は壮大でわかりやすく描かれていて、いいお話でした。

太古の石、というのはあながち感覚だけではないようです。

ちなみにその31巻にはトンボ玉のお話もあって、「もしかして、私って潜在的にギャラリーフェイクの大ファン?」と思いました。
トンボ玉風のビーズ(イヤリング)も出していましたので。

素敵な漫画です。
細野先生、サラちゃんはボブ・ディランの歌もちょっとイメージしていらしゃいませんか。読者の素朴な疑問です。

そして、
別の方向からの情報もいただきました。
ありがとうございます。
いいのですか、いつも教えてもらって。
すごく嬉しいです。

きのうは緊急事態宣言が解除になりましたね。そろそろ今後のスケジュールを具体的に考えていかなければ……。
と思ったら、きのうの夕方政府からマスクが届きました。


⚫3月から5月の3カ月

ほとんど家にいた3カ月でした。
特に4月以降はずっと家にいました。
初回のnoteに書きましたが私は3月で11年勤めたところを退職して、求職活動もストップ状態が続いているのです。
これで記録を残したり小説を書いたりしなければきっと、
「3カ月もあったのに、いったい何をしていたのだろう」と煩悶し、自分を無意味化するところです。

おかげさまで、熊谷直実のお話を書き終えることができ、20世紀に書いた詩の取りまとめもでき、長い小説の第8章を終えることができ、noteは毎日続けることができ、アクセサリーもガシャガシャに増え、ばらを育てるという経験のないこともするにいたっています。

そろそろ、求職活動を含めてまた準備を始めようかなと思っているところですが、この3カ月は自分を変えるための長い助走だったようです。

何度も書いていますがnoteは面白いです。いろいろな方がいて、いろいろな切り口がある。今の空気もわかる。皆さん良識的です。セミナーとか商業的な香りがするものはあまり拝読しませんけれど、総じて面白いです。

ここでいくつか自分の興味や趣向を再発見できたので、踏んでいる地面が固まったように感じています。

アメリカ人で、のちにイギリスに帰化した詩人、T.S.エリオットの長い詩を思います。

わたしはふたたび、ふりかえることを願わないので
わたしは願わないので
わたしはふりかえることを願わないので
この人の才や、かの人の能力をうらやんで
かかるものを、もはや争って手にいれようとはしない
(どうして年老いた鷲が翼をはる必要があろう)
どうして、世の常の力が消えうせたことを
なげく必要があろう

わたしは、現世のもろい栄光を
ふたたび知ることを願わないので
わたしは考えないので
わたしは、ただひとつの本当のつかのまの力を
とうてい知りえないことを知っているので
そこにはもう何もないので、わたしは、かのところ、木々が花さき
泉がわきでるところで飲みえないので

わたしは、時がつねに時であり
場所がつねに、そしてただ場所にすぎないことを知っているので
そして、この世のものは、ただ一度だけ、そして
ただひとつの場所において、現実であるにすぎないことを知っているので
わたしは、物ごとが、あるがままにあるのを喜び
あの祝福された顔をあきらめ
あの声をあきらめる
わたしはふたたび、ふりかえることを望みえないので
それゆえに、わたしは喜び、喜びの
いしずえとなるものを創りあげねばならない

そして、われらのうえに、慈悲をたれんことを神にいのり、そして
わたしはみずから論じすぎ
説明しすぎた事柄を
忘れるよう神に祈ろう
わたしはふたたび、ふりかえることを願わないので
これらの言葉をもって
すでになされたことの答えとしよう、ふたたびなされることのないように
われらのうえに裁きのきびしすぎないことを願って

『聖灰水曜日』Ⅰ T.S エリオット
上田保 訳
『エリオット詩集』(思潮社)より抜粋
Ash-Wednesday I by  Thomas Stearns Eliot
published in 1930, London and New York

この詩を最初に読んだのは10代の頃でしたが、人が生きる態度として望ましいように思えました。特に、

〈わたしは、時がつねに時であり
場所がつねに、そしてただ場所にすぎないことを知っているので
そして、この世のものは、ただ一度だけ、そして
ただひとつの場所において、現実であるにすぎないことを知っているので
わたしは、物ごとが、あるがままにあるのを喜び〉

この部分をしばしば思い出してきました。
このように考えると、すべてフラットになるのです。

そのおかげか、目の前にあるもの、目の前にないものをよく見て同じに見る癖がついたのだと思っています。長じて、人と自分を比べることもなくなりました。

場合によってはどの時代のどの国の人も同じになってしまいますが、それは想像ですね。それがないと私の場合、小説は書けないです。

翻ってこの3カ月はこの詩のいうところがより噛みしめられた期間だと思います。
毎日3食子どもたちのご飯を用意するのも、
ペットボトルのラベルをはがすのも、
玄関を掃くときに近所の方と言葉を交わすのも、
近隣のコンビニで店員さんの話を聞くのも、
ピンをヤットコで丸めるのも、
本をパラパラと読むのも、
バラに水をやるのも、
どのような日常も大切な自分の
「時であり、場所である」のです。

それはこれからも大事にしたいです。

⚫お籠りクラフトとばらとラベンダー

微妙な色合いのアクリルビーズをキレイに映えるようにしたいなと思って、またもやイヤリングを。

そしてまた、ネックレスです。

えーと、下北沢とか代官山の古着屋さんにありそうな、60'sのデッドストック風のアクセサリーを作ろうと思いました。ポップでキッチュな感じです。
とはいえ太めの9ピンでしっかり留めたので、しっかりした作りです。
サイケな色合いまではやはり組む勇気がないです。水色とか黄緑とか黄色の60'sの柄物ワンピースには合うのではないかと。

クラスプ(留め具)も派手にしてみたのが個人的にはポイントです。

この系統はラ・ドログリー(パリの手芸屋さん)のビーズを使うとセンスがよく、いい線いけるようにも思います。

ばらは葉っぱの様子を見ています。今のところはそのままにしておくのがいいようですので、他にも黄色くなる葉があれば対策を考えます。と思っていたら、水やりの時にポロっと取れてしまいました。

ラベンダーは花を摘みましたので、次の鉢に移すまで撮影もお休みします。

それではまた、ごひいきに。

おがたさわ
(尾方佐羽)

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