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龍神靈氣読本は毎週月曜更新します。
今週は昨日まで連休だったため、水曜の朝更新です。

西陣の拝み屋のお客様や生徒さんたちには、この言葉に馴染みがあります。
「神様劇場」、そんなことある?!というびっくりするような出来事を体験することを「神様劇場」と呼んでいますが、うちのお客様や生徒さんの多くの方がこの劇場の演者(体験者)になっています。
「神様劇場って、どんなのですか?」
毎日更新しているアメブロを読んでくださっている方から、ときどき聞かれます。
神様劇場の体験率は、その人の脳がどれだけ非日常に対応できるかに掛かってきます。
そもそも論として、人間の脳はその人の人格が破壊されないようセキュリテイとして備わっているので(これを俗に「本能」と呼びます)、例えば現実化したらパニックになる、人として完全に破壊されるというようなことは体験できない、とされています。
とはいえ、それはあくまで概論ですので、多少の例外が発生する場合も臨床から見えてはいるのですが。


神ごととか、神がかりと言われるものって、実はそういう仕組みです。
憑依がいい例で、そこにある邪気に対する耐性があれば憑りつかれることはなく、また反対に耐性が全くなければ一撃で撃沈します。
とはいえ、耐性があるのがよし、というわけではなく、影響は受けるわけで邪気に関わらずに済むなら、関わらないままがいいのです。
神ごとも同じで、その神の与えてくださるものに対し、耐性があれば話せるし、耐性がなければ話せない、ただそれだけのこと。
乱暴な言い方でいうなら、そういうお話です。
以前かながわに住んでいたころ、古代神と話してほしいというお客様に何人か当たりました。
その方の前世や守護の問題で、どうしても古代の神様のお力をお借りしなければならなかったことがあり、でも当時それはわたしの手には到底負えない領域の話だったのです。
霊力は確かに成長しますが、その成長もまた神はかりの中でのこと。
本人が希望したからと言って成長するわけではなく、また反対に本人が嫌だと言っても必要があるなら成長させざるを得ないものなのです。
なぜなら霊力とは天与の才、天からの借りものなのだから。

当時のわたしは、そのお客さま方に「できないの?どうして?」と随分詰め寄られたのを覚えています。
一方には随分「できないの?無能なの?」という言葉を頂きました(笑)。
他人に「無能」と言える人がどんな人なのかを学ぶ、よき機会でした。
そうまで言われていたわたしですが、京都に移住することになり、徐々に古代の神様ともお話ができるようになりました。
逆に言ったら話せるようになったので、上洛できたのかもしれません。
結局神様と話すには、こちら側だけの意向ではどうにもならず、相手である神様がお応えになるかどうかがポイントということ。
誰とどう話すかを決めるのは、話す本人。
それは人間も神さまも変わりはしない、ということでしょうね。

人の振る舞いには、いろいろな本心が映し出されてしまいます。
それをいちいち教えてくれる方、反対に気づいているけれど言わない方がいる。
気持ちよくいるために伝え方を考える、それが京都がイケズと言われる所以だとわたしは考えています。
察する力、読み取る力が試される世界、それは同時に自分というものの骨格がしっかりとしていないと成り立たない世界でもある。
「あんたさん、視えたりしはりますの? うちのおばあちゃんが、やっぱりそんなんしはる人やったわ」
上洛したてのころ、そんなことをよく言われました。
京都には、視えたり聴こえたりする人がどれだけおるんやろうって思ったりしたものです。
でもそれはきっと、いろいろなお作法や自分というものの骨格をしっかり持ってはった、ということの証なのだと最近思うのです。

上洛四年、まだまだ京都の人が言っているニュアンスがわからないことが多々あります。
これが判るようになったら、もうちょっと神様とお話しやすくなるかも。
そんなことを最近は期待して、この街で暮らしているのです。

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