見出し画像

推し、VR、そしてAI。だんだんと「カニカマ社会」になっていく、という話【声の履歴書 Vol.95】

はじめに言っておきますと、「カニカマ」は決して悪い意味ではないです。最後まで読んでもらうとわかるかと思います。

こんにちは。Voicy代表の緒方です。

この「声の履歴書」という連載は、Voicyがこれまで歩んできた道のりや、いま考えていることについて創業者の私があれこれ語っていこうというシリーズです。よかったらマガジンをフォローしてくれると嬉しいです。

今日は「最近、世の中がカニカマ化している」という話をしようと思います。フェイク(あるいはオルタナティブ)、バーチャル、代替で満足できる時代に、僕らの幸せはどう変わっていくのだろう、Voicyはなにを提供できるのだろう、と考えるようになりました。

カニカマ社会とは、偽物で満足できる時代のこと

僕は「カニカマ社会が来ている」という話を、以前から社内でしゃべってきました。

「カニカマボコ」って本当のカニじゃないのに、わりとカニ扱いされていますよね。実際かなりおいしいので、人によっては「実物のカニよりも生臭くないから好き」だったりもします。何なら、「カニは嫌いだけど、カニカマなら食べられる」という人までいるくらいです。

本当においしいカニはめちゃくちゃおいしいかもしれないけど、ちょっと安いカニだったら、「むしろカニカマのほうがおいしい」。そう思っている人はいそうです。

けっこう増えてきていると思うんです。

「べつにカニがなくても、カニカマでいいや」という人が。リアルな商品よりも、人工的に加工されたもので満足という人が。

たとえば実際のチーズは食べないけど、スナック菓子のチーズ味は好きとか、ブルーベリーは実物よりブルーベリーガムが好きとか。食べ物に関しては以前からそういう人もいました。僕もお菓子は大好きです。

ただ、それがもう、いろんな分野で出てきたなと。

たとえば恋愛もそうです。実際にいちから恋愛するといろいろ面倒くさいから、ゲームだったり、SNSでつながっている相手とやり取りするところで満足していたり。ファッションも、自分がいくらお洒落をしたってたかが知れているから、かっこいいアバターをつくって良いアイテムを着せたほうがいい、みたいなことは起きていますよね。スポーツももはや自分でプレーする人は少なく、プロの試合をみるだけでなく、ゲームやゲーム実況を見ています。

自分の身の回りのいろんなことがだんだんとバーチャルや代替を志向していく。それがどんどん進んでいって、最後は「人生そのものをカニカマにしようとしている」ように見えるんです。

「推し」は人生の主役代行業

ここ数年で「推し」という文化が一気に定着しました。いまの大学生と話すとおもしろいです。「バイトで稼いだお金の半分は推しにつぎこみます」という子は当たり前。「推しがいることで自分は生きていられるし、推しを推すことが自分の生き甲斐になっている」とまで言う子もいます。「推しがいないんだったら別にバイトもがんばらない」と話す子もいました。

要は、生き甲斐=推しになっている。これってある意味、「人生の主役代行業」じゃないかと思うんです。

人生の主役代行業に人生をどんどん委託しちゃって、自分自身はたいした存在じゃなくていい、お洒落じゃなくていい、自分には投資しない。それよりも推しに投資することで推しが頑張っていることを我が事のように思うことで自分はもう幸せなんだ、と。

もう本物はどこにあるのかわからなくなってきて、ゲーム上のアバターのほうが自分らしくなってきたり、SNS上の自分のキャラクターのほうが自分を表現できていたりしてくるんだろうと思います。

ここまで言うと、ちょっと怖いことにも感じられますが、程度の差こそあれ僕らはみんな、誰かに何かを託して生きている側面はあります。昔からそういうことはありました。アイドルはずっといましたし、もっと言えば宗教だって近いものがあります。ホラー映画なんかは怖い思いの疑似体験をしてますよね。

自分に投資をしなくなると、成長する人が減る?

ただ、このカニカマ社会って良い・悪いで言うと、どっちなんでしょう。

答えとしてはもちろん、「どっちもある」じゃないかと思います。

めっちゃ悪いほうから考えてみましょう。人々が自分に投資をしなくなると、単純に成長する人が減りますね。そうすると社会全体の生産性も減っていくと思います。

それから当然、「魅力的な人」の数自体も減っていく可能性がある。自己研磨をしていないから、人から魅力的だと思ってもらうことも難しくなるかもしれません。

魅力的じゃない人の人口がどんどん増えていくと、「そんな魅力ない人たちをパートナーに選ばなくてもいいよね」という流れになり、「どうせ魅力的な人がリアルの世界に自分に回ってくるほどいないんだったら、自分はバーチャルのほうがいい、推しされいればいい」というスパイラルが起こってしまう。最後は社会が二分化されるんじゃないでしょうか。

ちょっとディストピアすぎますかね。

贅沢さえ言わなければ、誰でもちゃんと人生を楽しめる

すごく良い点も挙げてみましょう。カニカマ化する社会では、贅沢さえ言わなければ、誰でもーーこれまでの資本主義や実力主義社会の中でどうしても勝てなかった人たちもーーちゃんと人生を楽しめるようになります。

「不幸」という状態がなくなる、ということですかね。自分なりの幸せを見つければ、「みんながたのしい状態」をつくれるんじゃないかと思うんです。

人間が個々で感じる「自分なりの幸せパターン」は明らかに増えていると思います。そしてこれにAIが加わると、カニカマの供給は加速するでしょうし、カニカマだけで生きているほうが基本は幸せである、となりそうです。

人生における、ある意味での「幸せの貧富の差」がなくなります。

中途半端に本気で生きるんだったら、もうバーチャルを楽しんだほうが良くて、ちゃんとリアルなものに囲まれたい人は本当にがんばらなきゃいけない社会になっていくでしょう。

Voicyはこれからなにを目指すのか。

「カニカマ社会」は、近年の文化やテクノロジー、人の言動から、僕なりの解釈で見えてきた現象です。ファクトはあるのかと言われると困るのですが、「そういう方向性に進むんじゃないかなあ」とは思っています。

ではそこに対して、Voicyはどういう立ち位置で関わっていけばいいんでしょう。それが一番悩むところなんです。

Voicyは「その人に会える場所」を目指してきました。「次はどの声とつながりますか?」と問いかけてきました。だからやっぱり、リアルで生きる人たちに役に立つようなサービスにしたいとは思いつつも、バーチャルで十分だという人たちにも響くコンテンツにしていきたいな、と思っています。

だってね、バーチャルに持っていくのって、自分の心と自分の声くらいなんですよ。ゲームでアバターを着飾るけどみんなどこかに最後本人性を残したくて声はそのままに話してるんですよね。

リアルでちゃんと自分の魅力を高めるような人も支援したいし、バーチャルで十分幸せな人もちゃんと肯定されるコンテンツを届けたいんです。

これからきっと多くのメディア企業やコンテンツ産業が、リアルとカニカマの間に立つことになるんじゃないか、と思っています。

人間の幸せの幅が拡張される社会が待ってる気がします。一緒に模索していきましょう。

ーー最後まで読んでいただきありがとうございました。

声の編集後記

記事の執筆後に、内容を振り返って音声でも話しています。よかったらこちらもお聞きください。

スキやフォローしてくれたら嬉しいです。

サポートも嬉しいですが、スキやシェア、パーソナリティさんへコメントなどVoicyの応援もらえたら嬉しいです!