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吉村家のカップ麺の話



結論から言うと、吉村家の味を忘れた。



故に吉村家のカップ麺の再現度を語ることは不可能であり、このタイトルは企画倒れとも言える。



しかし、そんな私にも吉村家のカップ麺から得た些末な感動や思考を文字にすることは許さても良いだろう。



昨今のパンデミックの影響で、気軽に家系ラーメンを食べに行ける状況ではなくなった。


これは家系ラーメンを定期的に摂取しないと死に至る病を患っている多くの家系ファンにとっては正に死活問題である。


そもそも、ラーメン=家系ラーメンと言っても過言ではないのであり、友人にラーメン食べようぜと誘われてついて行った先が豚骨醤油でなかった日には物足りなさを感じること必至。場合によっては友情に海苔1枚分の亀裂が入る可能性すらあろう。


そんな内なる波動を抑えきれぬまま、コンビニで吉村家のカップ麺を買った私を誰が責めようか。


例えバイト先で豚骨のかほりを漂わせようと、誰が私を止められようか。


長丁場になるバイトの関係上、必ずお昼ご飯を買って行かねば飢え死にしかねない私は、当然の如く日々カップ麺を食す生活にあった。


不思議なことに、いや不思議でもないが人間というのは同じものを食べ続けると嫌になる性質があるらしい。


私も例に漏れず、ある日を境にカップ麺の味を感じなくなり、匂いで食欲が消え去る病を発症した。


それ以来バイトはサラダチキンで乗り切っていたわけだが、家系ラーメンに触れない日々を過ごしていた私の目に飛び込んできたのは棚に燦然と輝く吉村家のカップ麺。カップ麺恐怖症ののことを考慮に入れてもなお、さすがに買わずには居られなかった。


5分が300秒にも感じる長い時を過ごし、意気揚々と割り箸を高らかに割り、案の定失敗しながらも蓋を開けた私を待ち受けていたのは芳香な豚骨の香りとコクを維持しながらも、根底に確かな醤油のキレを感じるスープ。


「醤油の味を邪魔するような豚骨はアカン」


そんな声が聞こえてくる気がする。


というか、吉村さんがはまれぽドットコムの記事でそう言っていた気がする。


麺もカップ麺にしては太麺でコシがあり、カップ麺恐怖症の僕でも食べることができた。


結論、これは確かに吉村家であろうと思う。


味が思い出せななかろうと、私がそう感じたので私の中では吉村家だ。


ちなみに画像は「大関」というお店の醤油ラーメンである。王道の醤油ラーメン、とても美味であった。

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