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二〇一五年四月 壱

Scene 33

その後数日を、入籍の挨拶で東京以外の五分家をはじめとする親戚を回ったり、引越し荷物の細々とした片付けなどに費やし、四月一日になった。初めて寒河江中央学院高校へ出勤する日だ。
髪型は軽い七三分けにし、メガネは昨年暮れに雪江に新調してもらった縁無しタイプ。スーツは、双方の両親に出してもらった金の一部でもう一着新調させてもらった。黒に近い紺色の、ステージ衣装だったマオカラーを思い出させる色だ。
同じく今日から出勤の雪江は、グレーのスーツを着こなし、髪を少し編んだ上でまとめている。こういう服装に身を包むと雪江は実際の年齢よりもずっと落ち着いて見え、新卒に見えない。化粧をする鏡越しに俺を見て、振り返らずに語りかける。
「あーくん、スーツ姿がやっぱりホストっぽい」
鏡に写る雪江の顔は、優しく微笑んでいた。
「スーツはいいんだよ、ステージでも着てたし。ただネクタイがどうも」
スーツは俺が選んだが、ネクタイは雪江のチョイスだ。スーツの色に近い濃い紺色に、細かく銀色で百合の紋章が散りばめられている。
「あら気に入らなかった?」
雪江は鏡の中でふくれっ面をする。
「違うって、ネクタイなんかほとんどしたことないから、苦しいんだよこれ」
「学院は基本ノーネクタイだけど、こういう時は正装してもらわないとね」
母が部屋に入ってきてにっこり笑いかけながら言った。今日から俺が所属する学院では絶対上司である。
「理事長、おはようございます」
仕事用のスーツ姿の母に、俺は反射的に腰を直角に曲げて頭を下げた。
「家ではそれやめて。校内に一歩入ったらそのモードになればいいの。そこだけ、早く慣れて」
母が苦笑して言う。
「私、先に行くから。あなたは自転車でも歩きでも、指定時間までに登校して。理事長の車に新卒教員を乗せていく訳にはいかないから。今後も一緒の出退勤はしないからね」
母はそう言い置くと足早に玄関へ向かった。
「学校回ってってあげるよ」
雪江が化粧を終わって、バッグの中味を確かめながら言った。
「ぜったい驚くと思うよ。お母さん、学校ではぜんぜん違う人間になるから」
雪江も母と同じ事を言う。先に覚悟ができて本当に良かったと感じる。高校時代筋金入りの不良生徒だったというあの安孫子店長が「理事長には勝てなかった」というくらいだから、学校では相当なものなのだろう。
地味なビジネスバッグにノートと筆記用具を入れる。それだけではあまりにカバンが薄いので、とりあえず大学で使ったインド史の教科書を入れて格好をつける。そして校内内履きのサンダルを入れた袋と弁当を持って雪江と玄関に向かった。
雪江と二人、広い玄関で靴を履いていると祖母が見送りに来た。
「初出勤だ、がんばってこいっちゃ」
「はい、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる俺に祖母が言う。
「あーくん、おらえの孫なんだはげ、他人行儀すねでよ」
祖母は訛ったまま言った。そういえば入籍した翌日から、祖母は俺に江戸言葉で話すのをやめている。
「んだらいってくっからねばあちゃん」
雪江が寒河江の女に戻って言う。
「考えてみたら、俺がお母さんと同じ職場、お前はお父さんと同じ職場か」
俺も軽い言い方に切り替えた。
「おもしゃい親子だったらやぁ」
祖母も笑った。


Scene 34

寒河江市中心部にある長岡山という小さな丘の中腹に、学校法人石川学園寒河江中央学院高校はある。雪江の車で学校の近くまで送ってもらう。
校門につながる道は、ちょうどトールパインのところで表通りから分岐する。俺はトールパインの駐車場で車から降ろしてもらった。
「明日からは歩いて行くわ」
俺は雪江にそう言い、学校へのなだらかな坂を歩み始める。新しい俺のスタートだった。
四月一日、生徒はまだ春休みでありその姿はない。俺は学院の校門に到達した。門柱は煉瓦造りの年代物だったが、校舎はそこそこ新しい。校門をくぐり、閑散とした校内を教員用昇降口を目指す。建物の間取りは前もって見学してあらかじめ憶えていたが、どうにも敷地が広い。この丘の中腹部を半分以上削って平たくしているのではないか。歩いてくるのはやめて、自転車にしようかなどと考え、職員通用口にたどり着く。
「新任の石川です、入ります!」
無人の通用口に向かって大声を出してみた。俺の声に反応したのか、少し遠くから足音がする。初老の男が現れ、俺を見てにっこり笑った。
「あー旧姓徳永くんか。佐藤だ、よろしく」
「せ、先生、その節はたいへん…」
住職とともに俺の家庭教師になってくれた佐藤先生だった。
「まぁしぇーっだな、上履きは持ってきた?」
佐藤先生は標準的な訛りで俺に話しかける。雪江が持たせてくれた内履きサンダルに履き替え、校舎への第一歩を踏み出す。
「君の下足入れ、そごな」
佐藤先生はさっさと歩き出す。俺は後をついて教員室に向かう。
「若旦那さまの到着だ」
佐藤先生は職員室のドアを開け、中に向かって小さめの声で言う。職員室がすこしざわつく。
「石川さんだっす」
佐藤先生に促され、俺は教員室に入る。デスクすべてが見渡せる位置に誘導された。
「はじめまして、本日付で寒河江中央学院高校に採用となりました、石川愛郎と申します。若輩者ですがよろしくお願いいたします」
少し声が上ずったが、礼のあとに小さな拍手が起こった。
「まーとりあえず、始業まであそごで待機してて」
佐藤先生が指さした先は、少人数打ち合わせ用と思われる、六人がけのテーブルだった。グレーのスーツを着た地味めな女が座っている。
「あ、あれは君の同期だがら、仲良くな」
俺はその女性の斜め前に腰掛ける。
「ども、はじめまして、石川です」
「…小川です…」
同期なのだろうが、彼女は少し老けて見える。というか、徹底的に地味なのである。長めの髪は黒いゴムで後ろで束ねているだけ、その上昔の俺が使っていたような銀縁眼鏡をあてている。こちらの挨拶に最低限の返事をしただけで、ずっと本を読みふけっている。別に親しく話す場でもないだろうと、俺は職員室の中をぼんやり見回した。
一番奥の方に、「理事長室」の札がかかったドアが見える。母はあそこにいるのだろう。そのドアを背にして、三つの大きなデスクが並ぶ。多分、偉い人なのだろう。それぞれのデスクの下流に、普通のサイズのデスクが四台ひと島の要領で並んでいた。
JETの曲を頭のなかで弾きながらしばらくぼんやりしていると、チャイムが鳴った。こういう音を聞くのは久しぶりだ。
「朝礼すっから、ふたりとも来て」
佐藤先生が俺たちを呼び、偉い人用の左デスクのわきに立たせた。理事長室のドアが空き、母が出てきた。室内の全員がきっちり約四十五度の角度で腰を曲げて礼をした。俺と小川もなんとかタイミングを合わせて礼をする。
「今年度の新任教員を紹介します。石川愛郎と小川沙綾。石川は社会担当で佐藤が指導、小川は国語担当で東海林が指導するように」
母は俺達に挨拶を促し、小川と俺はあらためて自己紹介の挨拶をする。
「試用期間は、八月二十五日まで。雇用契約の確認は、この後管理部長の高梨と行いなさい」
母は事務的にそう告げ、また理事長室に戻った。その後、偉い人と思われるふたりが事務的な連絡をし、朝礼はものの五分で終わった。
「じゃあ会議室へ」
佐藤先生と、東海林と呼ばれた先生に連れられ、俺と小川は会議室へ移った。程なくして先ほどの朝礼で事務連絡をした偉い人二人のうち一方が、書類を抱えて入ってきた。
「管理部長の高梨です。おふたりの着任を歓迎し、お祝い申し上げます」
管理部長の高梨と名乗った偉い人は、教師らしくない感じだった。ついでにまったく訛っていない。
「えっと、住民票と戸籍抄本、卒業証明書、成績証明書、教員免許のコピーを」
俺はそれらの書類をまとめた封筒から一通づつ取り出して管理部長に差し出した。小川はカバンからいろいろ中味を引っ張りだしては目を近付けて見ている。ようやく全て揃ったようだ。
「これ、雇用契約書。本契約の内容に不満がある場合は、契約は成立しません。面倒ですが、一緒に読み合わせましょう」
合計三十八項にもなる契約内容を、俺と小川が交互に読み上げる。正直、どうでもいいわそんなこと、というようなことまで書いてあるのだが、それが契約というものなのだろう。
「はい、契約内容に不明な点や納得できない点はありますか」
小川が、いえ特に、と抑揚のない声で答えた。
「ひとつ聞いてもいいですか」
俺は契約書のある項目をもう一度読みなおしながら小さく手を挙げた。管理部長がおや、という顔をする。
「この、試用期間のとこですが、試用期間中、乙に教諭としての適性無しと甲が認めた場合、雇用契約を破棄することができる、というのは」
「その通りのことですが。まぁつまり、著しく社会人としての適性に欠ける、ということです。あと、飲酒運転は試用期間も何も関係なく懲戒免職と、第四項に書いてありますけどね」
管理部長はすらすらと答えた。
「試用期間中の評価は私らがします。よほどやる気が無い奴以外はたいがい合格だげっと、今まで一人だけ、試用期間中に生徒と関係を持ってしまで、解雇になった奴はいだっけ」
佐藤先生が小声で言う。
「そうでしたな、アレ何年前でしたっけ」
東海林先生も訛りがほとんどない。
「あ、アレね、七年前。僕がここに来て次の年だったね、アレは参ったわ」
管理部長は転職らしい。
「そ、それはそうですね、関係はやっぱ…」
一応女性である小川に遠慮して、あまりこの件は突っ込まないようにと契約書にサインしてハンコをつく。小川は質問しなかったためさっさと署名捺印を終えていた。
「その話、ネットで読みました」
小川がぼそっと言った。
「小川さん、知ってるのか」
東海林先生があちゃーという顔をした。
「はい。夏休み期間中に、試用期間中の新人女性教員が、当時高校一年生だった男子生徒と関係を」
「想像の逆!」
冷静に言う小川のオチに、俺は盛大にコケた。
「おもしゃいコンビだな」
佐藤先生が苦笑する。
「では、一〇時半から、理事長室にて本校に関するレクチャーを行います。それまで待機」
管理部長は書類を丁寧に仕分けして整理ボックスに収め、会議室を出て行った。
「石川さん、小川さん、校内を回って見てきたら」
東海林先生がそう進言してくれた。指定された時間まで三〇分以上ある。この広い学校を一周するのに十分な時間だ。
「はい、行ってきます」
「はい」
案内パンフレットによれば、学院には敷地内に陸上競技用グラウンドがひとつとサッカー・ラグビー兼用のフィールドがひとつ、野球場がひとつある。体育館はふたつあり武道館も大きい。テニスコートは八面ありプールも完備。講堂にはブラスバンド部や演劇部のために本格的な主調整室と照明装置も備えられており、合宿練習用の宿舎を兼ねた、遠距離通学者用の寮も敷地近くにある。
「ウチの大学なんかこんな施設なかったぞ…」
パンフを見ながら敷地内を小川と並んで歩いた。
「高校と合わせた日吉キャンパスより広いかも…」
小川がぼそっと言う。
「日吉とか、小川さん?もしかして慶応?」
「文学部修士。ドクターコース希望してたんですけど、家がもう学費出してくれないんであきらめました」
小川は表情を変えずにぼそぼそ言う。すこし老けていると思ったが、なるほど俺より二学年上なのだ。
「めちゃくちゃ優秀じゃん…俺の大学は聞かないで、頼むから」
小川の方を見ながらおどけてそう言ってみたが、相変わらずの無表情で前を見て歩き続ける。
「就職に有利なわけでもない専攻であと何年も学費出すほどウチは裕福じゃない、って父に言われました。私は民俗学専攻なので、フィールドワークに適したこの学校の求人を見て飛びついたんです」
小川は無表情な割にすらすらと話す。ただ抑揚に乏しく、機械の音声のようなのだ。
「兄が昨年結婚して、家を増築したからお金がないと。畑を全部売ってしまえばいいのに」
小川に会話をするつもりがあるのか、少し突っ込んだ質問をしてみた。
「俺は埼玉の所沢なんだけど、小川さんは?訛ってないよね、東京?」
「千葉の船橋です。畑を売ればいいのに。そうすれば」
会話はどうにか成り立つようだ。
「へぇ、農家なんだ」
「千葉県船橋市の南部は、昔から農漁業が盛んで成田山参拝客の最初の宿として栄えており、私の実家の付近は江戸時代から続く天領の農村でした」
さすがにホンモノは違う。俺のような三流大学の文学部ようやく卒業とは、基礎からして違う。
「寒河江市は平安時代に荘園として成立し、のちに大江氏が地頭として入部し一帯を支配、大江氏は最上氏に滅ぼされましたが最上氏も改易、維新まではこの周辺も幕府天領でした」
「国語より日本史のほうじゃねえの」
教科書も見ずにすらすらと話す小川は無表情のままだ。
「寒河江中央学院高校は、教員の研究活動を全面的に支援する学校だと聞いたので、全力で採用をアピールしました」
小川が母に対してどんなアピールをしたのか気にはなるところだ。
「石川さんはなぜここに」
小川が初めて俺の方を見て話した。色気ゼロの銀縁眼鏡の下は、意外なほどあどけない瞳だ。
「いや、話すと長くなるから、今度あらためて。いや、なんなら今日、かるく飯でもどう?唯一の同期ってことでご挨拶代わりに」
「そうですね、オフ会のようなものです。知り合った以上顔を合わせて一緒に食事をするのは自然なことです」
どうも会話が咬み合わない気もするが、小川は拒絶してるわけではなさそうだ。
「そろそろ戻らないとな、広い学校だから帰るのも時間がかかる」
「そうですね戻りましょう」
小川が独特のイントネーションで答えた。


Scene 35

理事長室の重厚な長テーブルのドア側に俺と小川が座る。向かいには先ほどの高梨管理部長と、もう一人事務連絡をしていた偉い人、佐藤先生と東海林先生が座っている。理事長である母は、議長席に座っている。議長席の反対側のスクリーンには、パワーポイントで作成されたレクチャー資料の表紙が写しだされている。
「では高梨、始めなさい」
理事長は全ての者を姓の呼び捨てで通すと言っていたが、本当に本当だ。そして威厳もものすごい。自宅で俺をあーくん呼ばわりしている母とは別人である。この人はここでは紛れも無く理事長だ。俺はそれをまず頭に叩き込んだ。学院に母はいないと。
「最初に改めて自己紹介します。まず私、管理部長を仰せつかっています高梨です。校内では、管理部門を統括します。私の隣が大畑指導部長。校内では生活指導や進路指導、体育の授業と運動部の指導を担当します」
紹介が終わったタイミングで理事長が話しだした。
「私から説明しておきます。この寒河江中央学院高校は、学習・指導・管理をすべて分離しています。普通の高校のように、教師が授業も部活も全て行う学校ではありません。言うなれば大学のそれに近く、教師は学問を教え、部活動はその道の専門家が行い、管理も適切な手法をとって行います。この高梨と大畑は教員資格を持っていません。高梨は銀行の総務課長、大畑は陸上自衛隊の教育隊隊長でした。教師は自分の専門分野に磨きをかけて生徒に学問を授けるのが仕事です。そして生徒のメンタルケアも重要な仕事と思いなさい。教員は私が部長を兼ねる教務部に属します」
俺は素直に感心した。小川がさっき言っていたのはこういうことか。
「石川の指導係の佐藤は、ローマ帝国史の研究者です。あと一年半で定年ですが、仙台の大学で常勤講師として採用が決まっています。小川の指導係の東海林も、日本語言語解析の論文が学会誌に定期的に掲載されるほどの研究者です。指導部の仕事を横取りして、バスケットボール部の押しかけコーチをしてるけど」
理事長がにやっと笑って東海林先生を見る。東海林先生が照れて頭をかき、大畑指導部長が大笑いした。
「指導部長を拝命しております大畑です。理事長から紹介ありましたが、元は自衛官であります。陸上自衛隊では新任隊員の教育隊に長く関わっておりました。指導部は、普通の学校の体育教師の集団と思ってください。私は教員資格を持っていませんが、指導部の現役は全て体育教師の資格は持っています。自分の他に元自はいるが、元自は就職にもコネをたくさん持ってるから」
モトジというのは、元自衛官という意味なのだろう。
「私は日長銀行山形支店の総務課長として東京から転勤してきて、次の年にはここに転職してしまいました。懇親会でお会いした理事長の学校経営の思想に共鳴しましてね。教育者は教育に全力を入れ、管理部門は独立して効率化をはかると。ぜひ雇ってくれと懇願しました。生徒の成績の管理や出席の把握、むろん教員の給与管理、校舎の掃除やグランドの整備まで、すべての事務方を統括します。部活動の対外練習試合の交通手段と宿泊先、弁当の手配まで」
学院は、俺がむかし通っていた県立高校とは、何もかもが違うようだ。
「理事長、質問よろしいですか」
小川がめずらしく大きな声で言い右手をぴんと伸ばした。
「どうぞ」
理事長が小川を優しい目で見ている。
「私、大学で専攻していたテーマを継続して追っていこうと思っているのですが」
無造作に束ねた髪が揺れる。
「あぁ、小川は民俗学専攻だったね。学院の教師のスキルは、担当科目の生徒の理解度を示す指数によって評価される。この指数は高梨が考案したもので、試験の点数だけが変数ではないんだ。教師のスキルが一定以上を保持していれば、休日や放課後はもちろん、授業の空き時間も自分の研究のために割いても別に構わない。学会での論文評価もスキルには加点される。東海林など、その加点がなければとっくにクビだ」
「理事長、あんまりです」
東海林の抗議に皆が笑う。いや、小川は笑っていなかった。眼鏡の奥の瞳が、期待に輝いていた。
「ぜひ、石川家の文書を見せていただきたいと思います」
小川がワンオクターブ高い声を出している。俺がギター好きなのと同じように、小川は民俗学という学問が大好きなのだろう。
「石川家に伝わる古文書のたぐいは、先代の頃から数十年かけて県と寒河江市、山形大学にすべて無償譲渡してあります。しかるべき機関に閲覧願いを出しなさい」
理事長は事務的ながら優しさを込めた言い方で答える。小川が平伏した。
その後、理事長はパワーポイントを使って学院の歴史や学校経営の理念などのレクチャーをみっちり行った。長いことは長かったが、決して冗長ではなく、俺も小川も真剣に聞き、要所要所でメモを取っていた。まったく、去年の夏頃からの俺は、本当にノートを取るようになっている。自分で言うのも何だが、俺の行っていた高校は五年に一人くらい東大に二浪で合格する奴が出る程度の偏差値だったが、俺は一年の二学期まではテストで二十番以内をキープしていた。お勉強はできる方だったのだが、ギターにのめり込んでからガタガタ成績が落ちただけだ。やればできる子なのだ、俺は。
レクチャーが終わり、俺達は理事長に礼をする。
「小川、最初に伝えておきます」
理事長は俺達の礼を受けるとおもむろに話しだした。
「学院の教職員すべてが知っていることですが、その石川は私の息子です」
その言葉を聞いて、小川がちらりと俺を見る。表情に驚きの色はない。
「すくなくとも親戚だとは思っていました」
まったく動じない小川の態度を好感してか、理事長はにっこり微笑んで続ける。
「正確には義理の息子。石川家の婿、私の一人娘の夫ということになります。先週入籍したばかりだけど」
「それは大変おめでとうございます」
ボケているのか真面目なのか判然としないが、小川が理事長にまたお辞儀をした。
「学院では石川を息子としては扱いません。小川と同じように、ただの新任教員でしかありませんから」
この言葉は、俺にあらためて言っているのだ。
「私は校内では、教師も教員も生徒も、全て等しく姓を呼び捨てます」
小川は理事長をしっかりと見てうなずく。
「校内では、お互いのことは基本的に姓にさん付けで呼びあうように。教職員同士が先生と呼び合うのは愚の骨頂です。ただし、私と高梨、大畑のことだけは職位で呼ぶこと。これが学院の教職員のルールのひとつです」
「同姓の場合はどうしたら」
俺は間抜けな質問をする。
「同姓の人が複数以上いる場所で話をする場合は、もっとも年長の人を姓で呼び、その他はファーストネームにさん付けで」
高梨管理部長がさらりと答える。
「あと、教職員が生徒を呼ぶときも基本同じ、姓の呼び捨てだ。同姓がいる場合は下の名を呼び捨て。特に男性教職員が女子生徒の下の名をちゃん付けで呼ぶことは、学院では最大のタブーだ」
大畑指導部長が厳しく言う。
「逆もまたタブーですか、男子生徒のファーストネームをくん付け」
小川も同じく間抜けな質問をする。
「あたりまえ。このルールは例の新任女性教職員の事件から始まったんだから」
理事長が苦笑する。
「あ、大畑。石川には軽音楽部の顧問をやらせるので、承認してください」
「はぁ、理事長がおっしゃるのなら構いませんが。組織上、部活動はすべて指導部麾下ですが、演劇部と吹奏楽部と放送部以外の文化部は同好会的要素が強いので、実質的に管理部麾下です。希望する教員が顧問を勤めてますし」
元自衛官の大畑指導部長だけに、あまり聞いたことのない単語を使う。
「しかしなぜ軽音楽部に?あそこには」
「石川はギターがプロ級なの」
理事長は高梨管理部長の疑問を遮るようにそう言い、俺を見てニヤッと笑った。どうも何かありそうだ。


Scene 36

今日から学院に来た新入教員の俺と小川は、別に仕事があるわけでもない。それぞれの指導教員に挨拶し、理事長室にも聞こえるよう大きめな声で教員室へ向けて挨拶し、校舎を出る。雪江と母に、「同期との交友を深めるため、小川さんと一緒に食事をしてきます。遅くならないようにします」とメールを打つ。母からはすぐ返信が来た。
「ぁぃ♪( ゚∀゚ )」
本当に仕事とプライベートが完全に分離した母である。雪江はまだ勤務時間中なのか、返信は来ない。
丘の中腹にある学院への道は1本だけだ。来週、新学期が始まればこの道は学院の生徒であふれかえるのだろうが、春休みの今は閑散としている。俺と小川は並んで歩き、この道が表通りに突き当たる場所にあるトールパインを目指した。
「トールパイン…カミさんの親友が働いてる店。オーナーの妹だけどね」
俺はトールパインのことを説明したが、雪江をなんと呼ぶべきか少し考え、カミさんとした。雪江は嫁さんだが俺のほうが婿養子だし、妻というのもなんか堅苦しいし、カミさんが最も合っているような気がする。
「あそこ、良さげな感じの店だとは思ってました」
小川は相変わらずの調子で話す。小川はけっこう背が高く、俺と大差ない。横目で見てみたが、地味なスーツで覆ってはいるものの、けっこういいプロポーションをしていることに気がつく。
トールパインのドアを開けると、櫻乃の元気な声が迎えてくれた。
「いらっしゃいませー…なんだ、あーくんだがした」
櫻乃は特上の笑顔で迎えてくれたが、俺に続いて入ってきた小川を見て眉をひそめる。
「あーくん、なんぼなんでも浮気すんな早すぎねが?ユキさゆてけんじぇー」
俺はかなり山形弁のスキルが上がっており、この美人が話す訛りも大体理解できるようになっている。スキルが上がっての感想だが、櫻乃の訛りっぷりは最高ランクである。
「サクラちゃん何いってんの。この人は、学院の同期のひと」
席に案内されながらそう説明してやる。
「あー、んだっけー、今日ついたづだもねー、今日から学院さ行ったのっだなねー」
櫻乃はもとの明るい美人に戻って、俺達の前に水の入ったコップを置く。
「なにー、今年の新任先生は、ふたりばりなんだがしたー」
語尾を伸ばすのは、女性に特有らしい。
「小川です、よろしく」
小川はほんの少し笑顔になって櫻乃に挨拶した。櫻乃も笑って挨拶を返し、メニューブックを置いて去った。
「若いわりには完璧な訛りですね」
小川が櫻乃の方を見ながら言う。
「え、小川さん、わかるの、訛り」
「山形県村山地方は、フィールドワークで四回訪れました。お年寄りから話を聞くのに、訛りもある程度学習しましたので」
つくづく学究肌である。
「小川さん、飲む?」
一応、同期会なのである。
「えぇ、ワインを」
「あれ、酒はいける方?」
「はい、フィールドワークでお年寄りの酒の相手もしますし、むしろ好きです」
小川はメニューブックを見ながら、事務的な語り口でそう言った。底知れない女である。
「俺はそんなに酒は得意じゃなくて。カミさんは酒豪だけど」
「ほう。石川さんの奥さんと一度ご一緒したいですね」
冗談とも本気ともつかないことを小川が言い、そのタイミングで櫻乃がオーダーを取りに来た。
「アラカルトで頼んで、割り勘にしましょう。いいですか?」
「まかした」
大学時代はずっと居酒屋でバイトしていた俺だが、酒も料理も詳しくない。酒はビールとチューハイとハイボールしか知らないし、一週間鶏唐揚定食を食っても気にならない。気安い感じで小川にオーダーを任せる。小川はすらすらといくつかの料理名とワインの銘柄を櫻乃に伝える。料理の名は素材の名前しか理解できず、唯一わかったのはラザニアだけだった。
「イタリアンをベースにした創作料理、という感じですね」
小川は初めてにっこり笑って櫻乃に話しかけた。
「うわー小川さん詳しいんねがー、オランデーズソースどコンフィばオーダーするなて、店長びっくりするはー」
「先週引っ越してきた時から、この店気になって」
「うわーうれしいちゃー、まだ来てなー、ほんてよー」
「このメニューブックに載ってるのを全部食べるまでは来るつもり」
櫻乃はにこにこしながら店長にオーダーを伝えに去った。
「グルメなんだ」
小川は年上だが、同期だしタメ口で行くことに決めた。
「まぁ、食べるのは好きだな。フィールドワークに行った先でその土地の特色あるメニューを探しますし」
年下の俺にタメ口をきかれても、小川は気分を害した様子はない。彼女自身が敬語ともタメ口ともつかない語り方なのだ。
「小川さんは、音楽とか聴くの」
俺はもともとあまり人付き合いをしない方だし、女をナンパしたことなど一度もない。雪江以外の女と二人で食事するなど初めてだった。よく小川を食事に誘ったものだと、今更ながらに感心する俺。話題に困って、とりあえず俺の専門分野の話を振る。
「アニソンかな」
「へぇそんなバンドあるの、海外?」
「いや、アニメソングの略だけど」
小川は視線をしっかり俺に合わせて話している。考えてみれば今日はじめて面と向かって話したかもしれない。
「ボカロとかも」
料理とワインが届けられるまで、小川はアニメソングとボカロことボーカロイドについて俺に語った。事務的な口調はだいたい変わらなかったが、瞳は輝いているし喋りっぱなしだ。小川の話し方は、感情の起伏に関係ないのだろう。
「盛り上がったみでな」
若鶏のコンフィというやつとオランデーズなんとかとやらが櫻乃によって運ばれてくる。
「先生の場合は初出社ては言わねべな」
続いて店長がワインを持ってくる。
「一杯目は祝いで、俺のおごりだ。初出勤おめでとう」
店長は怖い表情のまま俺と小川にワインを注いでくれた。小川の事務的口調と店長の怖い顔にはある種の共通事項がある。その時の本人の感情とリンクしていないというところだ。店長は怒っているわけではなく、俺達を祝ってくれている。
「まだ来いな、裏メニューもおしぇっさげ」
櫻乃に小川のことを聞いたらしく、グルメの小川に店長が仏頂面で話しかける。
「それは楽しみです」
また完全な笑顔になった小川がワイングラスを持ち上げ、店長に応えてから俺の方にグラスを差し出す。
「これからよろしく、小川さん」
「よろしく、石川さん」
俺もワイングラスを捧げ、グラスを合わせた。店長と櫻乃が軽い拍手を送ってくれた。
オランデーズソースとかがかかったアスパラガスをつつきながら、ワインを一口。オランデーズソースってのはマヨネーズみたいなものか。また会話に入る。
「アニソンが、一分三〇秒のなかに印象深いフレーズを盛り込む、ってのは目ウロコだな。俺、一応元ミュージシャンだけど、サビがいきなり来る曲は作らなかった」
「へぇ。大学サークルのバンドでミュージシャンて言う」
小川はずけずけと物を言う。俺は少しカチンと来たが、今日一日一緒にいて小川の基本性格は理解したので本気で怒ったりはしない。
「言うねぇ。ですけど残念ながら俺のいたバンドは先週、メジャーデビューしたよ」
「へぇ。バンドの名前は」
「JET BLACK」
小川は食事の手を止め、脇においていたiPhoneを手に取る。検索しているのだろう。
「おぉ。本当だ」
いくつかのデータを読んで、iPhoneを静かに置く。
「デビュー直前に涙の脱退をしたギターのアイが、石川さん」
小川の情報収集能力に舌を巻きながら、俺はうなずく。
「脱退理由は、JETより大事なものができた。それが奥さんか」
小川は鶏のコンフィを口に運びながら俺を見た。
「まぁ、そういうことだ」
俺はものすごく恥ずかしくなってきて、ワインを一気に飲んだ。そのタイミングで携帯にメールが届いた。雪江からだった。俺のメールに返信したそのメールを開くと、
「ウワキシタラコロス」
?スマホを置くと、櫻乃がワインのボトルを持ってやってきた。
「サクラちゃん、雪江になんか言ったでしょ」
酒に弱い俺はワインを断り、携帯を振ってみせる。櫻乃が小川のグラスにワインを注ぐ。
「なんだてユキ、リアクション早いったらやー。今さっきメールしたんだじぇ、あーくん、女性と楽しそうに食事してます、って」
櫻乃は名前通り、桜の花のように笑って言った。
「やめてくれー、俺殺されるって」
「さすがデビュー直前のバンドを脱退するだけあって、相思相愛ってやつね。そんなのアニメの中だけでしか存在しないと思ってた」
小川のあくまで冷静な表情と語り口は、櫻乃といい感じのコントラストになっている。
「ベダボレなんだじぇー、ユキもあーくんも」
櫻乃が屈託のない笑顔で小川を見る。小川も少し微笑んだ。
「私はそういうの、わからない」
「ほだなごどないー。小川さんだて必ずしぇーおどご見つかっさげ心配ないー。美人だしスタイルなのすばらすぐいいどれー、うらやますいったらよー」
女性同士、見るところは見ている。天は二物を与えずとやら、美人の櫻乃は胸のボリュームがすこし乏しい。小川も化粧っけがないだけで、ちゃんとメイクをして髪型を整え、メガネも替えれば、そこそこ映えるのではないか。
それから、お互いの趣味であるアニメとロックの話をして会話が弾む。雪江との馴れ初めなども話した。
小川が三杯目のワインをオーダーする。顔色も語り方もまったく変わらなかった。今度は店長がワインを注ぐ。そのとき、店のドアが開いてカラコロと鐘が鳴った。
入ってきたのは雪江だった。
石川家の女モードになっていて、ついでに軽い怒りのオーラも漂わせている。店長がそっとテーブルを離れる。雪江はヒールを鳴らしてこちらへやってくる。そして、テーブルの前で小川に深々と礼をした。
「石川愛郎の妻です。雪江と申します。このたびは寒河江中央学院高校へのご着任、おめでとうございます。夫のこと、これからよろしくお願い申し上げますわ」
小川は最初呆気にとられた表情を浮かべたが、雪江の挨拶を受けいつもの表情に戻った。
「はじめまして、小川沙綾です。縁あって旦那様と同期ということで、寒河江中央学院高校で教職に就かせていただきます。これから何かとお世話になると思いますが、よろしくお願いいたします」
さすがにまる二歳年上だし、フィールドワークとかでいろんな人に会うのだろうし、頭もいいことだし、小川はそつなく雪江に挨拶を返す。口調が全く普通になったのには驚いたが。
「私もご一緒していいかしら」
そう言いつつ雪江は俺の横にぴったりと体を寄せて座る。
「ホント初めて見た。こんなのアニメ以外であるんだ」
小川は雪江と俺の密着ぶりを見て言い、ワイングラスに口をつける。
「小川さん、酒強いんだって」
とりあえず当たりさわりのなさそうな話題を振ってみる。
「酒に強いって言うから、雪江さんと一緒に飲んでみたいです」
挨拶が終わると普段の話し方に戻る小川。
「あらいいわね。でも今日は車だから…そうだ、今度うちで飲もうよ。理事長が理事長でなくなるとこ見せてあげるわ」
雪江は小川の人間を見ぬいたらしく、軽い口調で言った。
「あぁそうか…理事長の娘夫婦だもんね。行きたいな、オタクに」
少しは酔ってきたのだろう、話し方は微妙だった「ですます体」を放棄している。
「大歓迎よ、あーくんの同期だし」
雪江は小川の顔を覗きこんでそう言い、少し挑戦的に笑った。小川は表情を変えずに雪江の目を見る。
「お招きありがとう」
小川がグラスを雪江に捧げ、ワインを飲み干した。


Scene 37

新学期は四月八日からで、校内にはほとんど生徒はいない。野球部はじめいくつかの運動部がグラウンドや体育館で練習に励んでおり、その生徒が時折校内に入ってくるだけである。一度廊下でジャージ姿の生徒とすれ違ったが、生徒は反射的に俺に礼をする。
「おつかれ」
俺はよくわからない返答をした。生徒は、そういえばこの人だれ、という感じで去っていく。
俺は指導係である佐藤さんにカリキュラムに関するオリエンテーションを受ける。生徒のいない三年生の教室だ。初出勤から三日経ったが、ルール通りようやく佐藤先生でなく佐藤さんと呼べるようになってきた。俺の実の親父よりもずっと年上である佐藤さんは、やはり学者らしい泰然とした雰囲気を醸し出している。分家筆頭のフランス文学研究者、佐兵衛さんに相通ずるものがあった。
「佐藤さんは、ずっと学院ですか」
休憩タイムにお茶をすすりながら、俺は質問してみた。
「まぁんだけど。大学の博士課程修了したから、二十七歳ンときからかな」
なんとも高学歴の人がザクザク出てくるものだ。
「大学さ残りたかったげっと、講師の枠はねかったし、研究生で残れるほどうぢも裕福ではねえしな」
俺などは途中で仕送りを止められたが、佐藤さんの親も、大学に九年通わせるだけの資力は大したものだ。
「先代の旦那様に声かげらっでよ、学院さ来いって。着任して次の年に、理事長が入学してきたんだ。先代は校内では理事長を石川呼ばわりしていっさい特別あづがいすねっけな」
母はその教えを今も忠実に守っているのだろう。
「俺も石川のお姫様ば二代続けで面倒見で、最後は若旦那のきょういぐ係だど。名誉なこどだず」
「すいませんこんなバカを教育していただいて」
俺は恥じ入って頭を下げた。
「第一印象は、学問はないがバカではなさそうだ、ってとこがぁ。雪江が選んだなださげ」
佐藤さんは豪快に笑った。
「そういや理事長が言ってだっけな、ギターはプロ級って」
佐藤さんが俺に尋ねる。
「大学ではずっと同じメンバーでバンドやってまして。東京や埼玉千葉、神奈川のライブハウス回ったりして、あやうく留年しかけました。理事長と佐藤さんとご住職のおかげで救われました」
俺はまた頭を下げる。
「学問はねぇなんてゆたげっと、石川さんのノートずっと読んでっと、あとの方ではだいぶ理解力が上がってるこどがわがった。んだがら、バカではないってこった」
多分褒められたのだろう。
「バンドやめで、雪江ば取ったんだがした」
「そういうことです」
「バカではねぇな、やっぱ」
逆に言えばバンドをやっていればバカということかと思い、少し気分が悪かった。
「でも一応、俺のいたバンドは先週メジャーデビューしたんすよ」
「メジャーってごどはレコード出したなが」
「まずDVDですけどね」
「テレビさ出だごどあんなが」
「関東ローカル局の深夜番組ですけど、二回ほど。YouTubeの動画再生回数も七万回超えてますよ」
俺は少し口を尖らせてアピールした。佐藤さんが少し感心したように言う。
「俺はそういうの疎いがらよくわがんねげっと、テレビとインターネットに出で、レコードも出してるってのはすごいなんねが」
「山形の十文字屋にも売ってました。父が五十枚も買ってきて、みんなに配るって言ってましたわ」
俺は少しうきうきして言った。
「旦那様がなぁ。んだら大したもんだ、石川さん、お前はバカではねぇな」
父が認めたらそれでいいということか。
「んだげど、軽音楽部の顧問なぁ…」
初出勤の日、高梨管理部長が何か言おうとしたのはこのことか。
「何か問題でも」
「あの部は、学院の問題児のアジトみでなものなだ」
佐藤さんが少し眉をひそめた。
「問題児ってと、國井と柏倉、西川とかいう生徒ですか」
「なんだ、おべっだんだがした、國井だなごど」
「雪江やトールパインの店長やサクラちゃんに聞いて。ほんのさわりだけ」
佐藤さんが驚いて俺を見る。前に母が言っていた通りだ。しゃねっけ、ってよりおべっだ、ほだなごどてゆうほうが強いんだと。まさにその通りになった。
「んだら話早い。あそごは、國井と柏倉、西川、ほんでそれぞれの彼女が籍置いてる。西川だけはほんてんギター好きみたいで、ギャンギャン鳴らしてっけど、けっきょぐはゆぐない野郎だのたまり場だ。指導部長も管理部長も、ヤロだが卒業するまで黙殺することにしたんだ。唯一、成績のいい沖津って女子が部長だがら、仕方ないってどごもあっけどな。入部希望は受付でねぇ。もっとも、あそごさ入部すっだいやろなのいねべげどよ」
大学で俺達の根城だったジャズ研究会の部室を思い出した。壁は落書きだらけ、リョータローのドラムセットと俺のアンプが置きっぱなしで、俺がよく泊まるためパイプベッドまで置いてあった。
「大学の頃のウチの部室と似たようなもんでしょうね」
俺は気にかける様子もなくつぶやく。母や祖母が言っていたように、子供を怖がる必要はない。ギター好きが少なくとも一人はいるようだし、面白くなりそうだ。
「案外肝が座ってんな、石川さんは」
「雪江が怖すぎて、他のものは平気なんですよ」
俺の冗談に佐藤さんがまた笑った。
「なんか盛り上がってますな」
佐藤さんの笑い声に釣られてか、東海林さんが小川を伴って教室にやってきて隣の机にそれぞれ座る。
「國井だの話してでよ、石川さんは雪江以外怖くないって言うさげ、大笑いしたのよ」
「そりゃ心強い」
東海林さんはほとんど訛りがない。
「國井たちは、怖いってか、面倒くさいんですよ。國井のことは…?」
「石川さんははそのごどだいだいおべっだど」
佐藤さんが少し誇らしげな感じだ。
「國井はあの通り歳も行ってるし成績も抜群で、教師なんか見下してる感じあるからね。柏倉は無口で何考えてるかわからない不気味さ。西川は誰彼かまわず噛み付いて回る」
熱血教師系だという東海林さんが困った表情を作ってみせる。
「その、國井って」
小川がノートを広げながら俺に問いかける。俺は彼らのことをかいつまんで話してやった。小川が熱心にノートを取っている。
「ほほう、なかなか興味深いです」
東海林さんは明るく語りだす。
「小川さんは私の実家と同じ、千葉の船橋でしたよ。大学同じなのは知ってたけど」
高学歴の在庫がまた貯まった。
「東海林さんは、なぜ学院に」
俺は高学歴の濃度を一気に薄めてしまう勝手な質問をする。
「母の田舎が寒河江なんだ。子供の頃は田舎に帰省するのが楽しみだったな。田舎はいいよねやっぱ」
「船橋はじゅうぶん田舎です」
小川が静かにツッコミを入れる。
「小川さんとこはそうだろうけど、俺は船橋駅徒歩五分以内だから」
東海林さんが笑う。小川も苦笑した。
「大学二年の頃、久々に寒河江のおじいちゃんちに一人で遊びに来たとき学院を見てね、いい感じの高校だなと思ったの。調べてみたらますます興味が湧いて、就活はここ一本に絞ったよ」
「たしかに、いい学校だと思います。研究活動を奨励してくれる」
小川が眼鏡を拭きながらコメントした。何の変哲もない銀縁眼鏡をはずした小川はやはりそこそこの美人であった。
「あ、さっき雪江さんからメール貰いました。こんどの土曜日に家で飲もうって」
「なんだそら」
先日そんな話にはなっていたが、具体的な日時にはふれていなかった。それにしても女というのは電話番号やメアドの交換が早いものだ。
「小川さんはもう雪江と会ったんだがした」
「初出勤の日に石川さんと食事に行って、その席で」
小川はさらりと言いのける。
「石川さんは女房持ちなのに、さっそく初日に同期をナンパか」
東海林さんが笑って茶化す。
「初の同期会ですよ、トールパインですし」
雪江に隠れてコソコソ会うのであれば、街の人気店であるトールパインには行かない、と暗に訴えているのだ。
「あの店美味しいですね」
小川が相変わらずの抑揚のなさで言う。
「あそごの店長の安孫子は、高校時代はひでがったんだ。学校で昼飯食ったら左沢線乗って山形さ出かけてって、目のあった奴と喧嘩してくんだっけ」
佐藤さんは昔を懐かしむように言う。
「食後の運動ですな」
東海林さんはあくまで明るい。
「しまいには山形で一番悪いのが集まるんで有名な馬見ケ崎実業まで叩きのめして、学院のオニシロウなて呼ばっだんだじぇ、安孫子」
「格闘技とかやってたんですか、オニシロウ店長」
店長とつければいいというものではないぞ小川。
「なにもしてねっけなー、べづに」
「よく退学になりませんでしたね」
俺は素直な感想を言った。
「ほだな警察沙汰なの日常茶飯事よ。そのたんびに理事長が警察さ頭下げに行ったなだ。理事長は、安孫子はすっだいごどわがんねくていらいらしったなださげ、黙って見ででやっべて指導部長さゆたなよ」
「指導部長は安孫子を退学にしろと何度も理事長に進言しましたからね」
「んぼこの喧嘩だどれー、めんごいばんだー、ほだいごしゃぐなーおおはだー、で終わらせだっけ。理事長は時々訛り丸出しにしてはぐらかすからよ」
たしかに母は標準語と訛りを効果的に使い分ける。
「なるほど、子供の喧嘩でしょうに、かわいいだけです、そんなに怒らないで指導部長、ですか」
小川が見事な訳を披露した。
「小川さんは言葉わがんなが」
「フィールドワークでほうぼう訪れましたので、東日本の方言はほとんどわかります。話すのはムリですが」
「土地の古老からの取材とかあるからな」
東海林さんが熱血教師から言語学者の顔になってコメントした。
「それにしても、石川宗家で一杯ごっつぉになるなて、中々ないごどだがら。まんず明日は気ぃつけでな」
佐藤さんが小川に忠告を入れ、休憩時間は終わりになった。


(「二〇一五年四月 弐」に続く)

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