見出し画像

Øy

意外と快適だった。というのが、ノルウェーの(唯一の)国立コンテンポラリーダンスカンパニーCarte Blancheのコロナ後初の公演 “Øy” (ノルウェー語で「島」の意の女性名詞) を見た感想だった。3月13日にすべての舞台上演が禁止されて以降では初のCarte Blancheの公演、その初日を見届けに行こうということだけを考えてチケットを取った。その後、三月の世界初演と演出を変えたと耳にしていたが、おそらく規制により客席の間隔を1m開けなければならないことに起因する演出の変更、ということだったのではないだろうか。

劇場に行くのは、センスのいいもの、好奇心をくすぐるものを誰にも邪魔されずに自分の世界に浸って見ることができるからだ。それが許されるからだ。そして、たいてい満員の劇場だと窮屈で肩が凝る。周りの人の息遣いが気になってしまう。だが今回は前後の椅子と1mの距離が空いていることで、自分のパーソナルスペースが確保されている。肘置きの取り合いにもならない。ただ、コの字型の客席かつ、舞台奥にミュージシャンという配置だったため、二列目にいたにもかかわらず自分があまりに丸見えだと感じた。それに、真後ろ後ろに音響照明卓があったにもかかわらず、ほぼ誰の気配もを感じなかった。一緒に見ている、誰かの頭越しにダンサーを見ているという体験は自分には起きなかった。まるで、それぞれ家でパソコンの前でパフォーマンスを見ているようだとも感じた。

もちろん、やはり目の前で実物の体が動いているだけあって、情報量は大きい。頭がフル回転して途中からメモを取り続けていた。そこでふと思ったのが、その生の体がそこにあることの情報量と情報の種類の豊富さは間違いないとして、それぞれの観客が受け取っているもの(アンテナを合わせている・焦点を当てているもの、あるいは無意識に受け取ってしまっているもの)は、同じなのだろうか、と。いやそんなはずはない。そう、生身の体からそこで動いているその「現象」から受け取る情報は、受け手によって全然違う。広く受け取られるもの、一部の人だけに受け取られるもの、ある個人的な経験に基づいて想起されパフォーマーの意図とは必ずしも一致しないもの、にもかかわらず何人かの間で今日体験されるもの。全く同じではないが、全く違うわけでもなく、それぞれの個人がその時間空間、つまりおなじ「場」を過ごすことで経験されたこと、観客だけでなくパフォーマーも含めて同じ「場」を共有したことで「起こった」(起こりうるではない)ことをもってその日の上演となる。

ということは、だ。もし見てほしいもの・共有したい目線(伝えたい意味ではない)にとって明確であれば、そこだけシャープに切り取って映像に残すことができるのではないか。そして、それが映像で出来る作り手であれば、劇場あるいはどこでもいいが上演される場所に於いて、よりはっきりと観客にその共有したいものを示せるのではないか。つまり、今オンラインでなんとなくいつも通りの舞台の記録の仕方で映像を垂れ流してしまっている人は、劇場空間で自分が興味を絞りきれていないが故に雑多な情報を垂れ流し、観客に「どう受け取ってもいいですよ、自由ですよ」と言って丸投げしてしまっているのではないか。(僕はそういうコンテンポラリーダンスの舞台を幾つも見てきたのでコンテンポラリーダンスの人だと思われたくはないのである。)

映像でできることは舞台で出来ることとは異なる。だからオンライン舞台芸術に全てが移行していいはずがない。同様に、劇場空間で出来ることは劇場以外で出来ることとも異なる。それぞれの劇場もサイトスペシフィックな空間の一つに過ぎない。得意分野が違うのだ。舞台という有無を言わさず場を共有させられてしまう空間、そのなかでも一際観客の集中力を持続させやすい、あるいは飽きてしまっても逃げ場のない劇場という空間で起って欲しいことはまだまだある。今日の作品でも、久しぶりにダンスという「現象」を見れたことに対して大変満足している。劇場はまだオワコンではない。

しかし同時に、何でもかんでも劇場でやればいいという考えの人はちょっと場所を考えたらいいのにとも思う。今日の観客は満席で30人強。満席でも明らかにスカスカの状態を作ってまで密室のブラックボックスで今上演する必要性は、「劇場の日を消さない」という意思表示以外に何かあったのだろうか。

この「Øy」という作品をどこで見たいかと考えた時、やはり島で見たくなった。水面が見える小高い丘の上の広場か、あるいは港の倉庫の中か。ただし、夏の寒くない時期に。夏至の一ヶ月前の時点で既に深夜でも真っ暗になることのないこの国では、暗転を使う演出が不可能なこともわかっているが、そこを今回のように条件に合わせて演出を変えればいいだけだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?