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ミゾベのnote

はじめまして、ミゾベリョウです。

ふだん、僕はodol(オドル)というバンドで活動していて (このマガジンもodolのnoteの一部なのですが)、そこでは主に、ボーカルと作詞を担当しています。
今回、「ミゾベのnote」というそのまんまな名前のマガジンを作り、文章を残していくことにしました。
その内容のお話をする前に、一度今までと今の僕についてお話しさせてください。

作詞と作曲

僕たちodolは、音楽活動の根幹とも言える作詞/作曲を分業しています。基本的には、ピアノの森山が作曲を担当し、ボーカルの僕がそれに歌詞をつけていくという流れになっていて、それは森山と音楽を始めた10年以上前から変わっていません。

メロディの入ったdemoをもらうときの完成度は曲によって差がありますが(ほぼアレンジまで完成している時も、まだピアノとメロディだけのときもある)、今まで僕たちがリリースしてきたすべての作品は、歌詞よりも音楽が先にあって生まれたものです。おそらくそれは僕たちのケースに限ったことではなく、詞と曲を分業する多くの場合、曲が先にあってそれに歌詞をつけていく、という順番がほとんどだと聞きます。

2017年に発表した、『視線』という作品が僕にとっても、バンドにとっても転機だったように思います。「曲ありきで歌詞をつけていくこと」に対して、バンドのフロントマンである自分の責任という部分も重ねあわせて、僕の思考は立ち止まってしまい、歌詞のテーマを見つけることができなくなりました。ですが『視線』を作る期間に自分自身と向き合っていったことや、その後の音楽活動のなかで、「曲ありきで歌詞をつけていくこと」に対しては肯定的に捉えられるようになりました。
そして、音楽と言葉はお互いに作用しあっていた、ということに気がつけたのです。

音楽と言葉

歌詞のテーマを考えていくにあたって、曲が先にあることで、その音色やメロディに歌詞のイメージを引っ張ってもらったり、逆に、歌詞の意味が曲や音色、アレンジを引っ張ることも多くあります。

言葉には、もともと存在するイントネーションや意味があり、同じような意味を持つ言葉でも、ニュアンスが微妙に違っていたりします。一見、メロディという制約があるようにも見えますが、もともと存在するイントネーションをメロディであえて裏切ってその言葉に注目させたり、メロディに過剰に言葉を詰め込み、口ずさみたくなるようなリズムを作ったりと、ここには書ききれないほど様々な言葉の選び方があるのです。

もちろん音楽と言葉の関係以外にも、他の楽器のフレーズやリズムとの組み合わせなどが無限にあります。
つまりは、音楽は言葉を制約するものではなく、ただただ相対的に作用するものとして、存在しているのだと思っています。
すこし難しい言い回しになってしまったようにも思いますが、そんな音楽との組み合わせにこそ、すべての楽器の中で唯一「言葉」という概念が存在する楽器「歌」の醍醐味があり、だからこそ人々は「歌」に感動できるのではないか、とも考えています。

ミゾベのnote

この「ミゾベのnote」では、あくまで僕という個人の視点から、先にお話しした「作詞する」こととは違う、自分の表現の新たな一つの場所として、文章を残していこうと思います。音楽という相対的な存在のない、新たな場所です。
けれどあくまで僕はミュージシャンだから、odolの楽曲に対して書くことも多いだろうし、逆に楽曲になるまでもないような些細なことも書くかもしれません。
僕にとって価値のあることを書いていこうと思います。読んでいただいている皆さんにとってもそれが価値のあることだと嬉しいな。

そして!このマガジンや記事のヘッダーに使わせていただいている写真は、
フォトグラファーの野本敬大さんに、リモートで撮影していただいたものです。
なんと僕の自宅で撮影したのですが、面白い写真をたくさん撮っていただいていますので、これからの記事で他の写真も投稿していこうと思います。

昨日公開になったradikoブランドムービーに使っていただいている「小さなことをひとつ」という曲については、また来週お話しますね。
ムービーまだご覧になっていない方は、ぜひご覧になってみてくださいね。

これからよろしくお願いします。


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