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唯一、僕を「親友」と呼ぶ彼のこと

ここ数ヶ月で世の中はすっかり変わり、ライブやイベントなどはもちろん、特に遠くに住む人と気軽に会うことは難しくなってしまいました。今はなかなか叶わない「乾杯」の二文字を見ると、自然と思い出される顔があります。
 
東京で初めて住んだ街、高円寺。
僕には、そこで暮らしていた頃に何度も乾杯し、夢を語り合ったひとりの大切な友人がいました。

出会い

彼との出会いは、20歳のとき 。高円寺の飲食店のアルバイトでした。第一印象は最悪で、お互い「こういうヤツは苦手なんだよなあ、と思ったよね」と今でもよく話をするほど。
美容師になるために専門学校へ通っていた彼はいわゆる軟派な男で、僕が働いていると、毎日違う女の子と二人でお酒を飲みに来るのです。しかし彼と接していく中で、ただ軟派というわけではなく、とにかく他人に気を遣えて優しい人間であること、そしていろいろなことに対してちゃんとこだわりがある魅力的な人間だということが、だんだんとわかってきました。
好きな音楽の話や、古着や靴へのこだわりについて話していくうちにお互いのわだかまりも解け、いつしか僕らは何がなくとも一緒に遊ぶようになったのです。

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(彼の夏のユニフォームは、ヴィンテージのハワイアンにスキニー。)

彼との思い出深い出来事といえば、僕がやっているバンド、odolの初めて作った音源をとても良いと言ってくれて、初めてのライブにも足を運んでくれたこと。 CDを出したり、ライブをしたりといった活動を積み重ね、今でこそ僕らの音楽に耳を傾けてくれる方が増えてきましたが、活動を始めたころに僕らの音楽を好きだと言ってくれる友人の存在は僕にとって大きかった。
あとは、成人式のために、彼に教えてもらった洋服店でスーツを仕立てたこと。彼は濃い緑色、僕は水色のモッズスーツで、今思うと少し派手すぎる気もするけれど、自分が好きなことやカッコいいと感じることを物怖じせずに表現するのは大切なことだと彼から教わったような気がします。そういえば、恰好をつけるのもうまいヤツだったなあ。
 
美容師になるための国家試験を目前に控えた2年生の冬、彼は「俳優を目指したい」と言って学校を辞めました。僕も薄々感づいてはいたのですが、彼が一番好きなものは映画だったのです。
僕を含めたたくさんの人が、「卒業だけでもしたらいいのに」と言いましたが、すでに俳優になると覚悟を決め、話をする彼の言葉には、なんとも言えない不思議な説得力がありました。「コイツなら、なんかやってくれそうだ!」ってかんじ。


高円寺という街

僕らは親しくなってから何度も高円寺で話をしたし、そこにはいつも乾杯がつきものでした。といってもお金があるわけでもなく、行くのは決まって駅前の安い中華料理屋。いつかお互いにその道で大成したら、彼が出演する映画の曲を僕らが作れたらいいだとか、僕らの作る曲のミュージックビデオに出演してほしいだとか、そんなふたりの将来の夢について語り合っていた時間が僕にとってはかけがえのないものでした。

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(高円寺での彼の写真)

高円寺の街は不思議な街です。狭いのにいつもたくさんの人が居て、「天すけ」はいつも並んでいて、SEIYUのエスカレーターは世界一遅い。そしてただほんの数十分歩くだけで必ずと言ってもいいほど知り合いに出くわします。そこに住んでいる、というだけで不思議な連帯感があって、すぐにみんな仲良くなる。福岡出身の僕でもまるで地元のような温かみを感じるほどです。
 
そんな僕らをやさしく包み込んでくれた高円寺という街そのものも、いつしか僕にとってかけがえのない場所になっていました。

 僕らの葛藤

俳優を目指して活動をしはじめた彼は少しずつ映像や広告に出るようになり、僕はその様子を目にするようになりました。
 
その一方、僕がodolを始めたばかりの半年間は、出口の見えない日々が続いていました。僕らのdemoを手に取ってくれる人はほとんどおらず、仕事を順調にこなす彼に対し、少なからずジェラシーや焦りを感じていたのも事実です。

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(FEVERでのライブのとき、来てくれたこともあったな。)

そして時は流れ、気がつくと僕らが高円寺で暮らし始めて5年。彼にこの街から引っ越すことを告げられたのでした。

それから

僕らは違う街に住んでもわりと頻繁に会っていましたが、彼の様子は高円寺にいた頃と少しだけ違っていました。あまり映画の話や自分の俳優の仕事の話をしなくなり、僕もあまり自分の音楽の話をできなくなりました。高円寺から引っ越して学芸大学前に住んでいた彼が、しばらくしてその家を引き払い、地元の木更津へ帰るまでにそう時間はかかりませんでした。
 
彼が木更津へ帰ってからは、会うこともほとんどなくなり、連絡をとり合う機会も減りました。僕の方は、odolとして『視線』や『往来するもの』の制作が始まり、それは今までの作品作り以上にシビアなものでした。他のことを考える余裕すらないまま日々を過ごしていたというのも、彼と疎遠になってしまったひとつの大きな理由だったかもしれません。
 
『往来するもの』の制作が佳境に差し掛かった頃、僕らのFUJI ROCK FESTIVAL’18への出演が決定。2014年に新人枠であるROOKIE A GO-GOに出演していたこともあり、僕らodolのフジロックへの思い入れは強いもので、アルバムの制作と並行しながらのリハーサルでも力が入りました。
 
そんな中、僕らのフジロック出演が決定したことを知った彼から、久しぶりに一本の電話が。

「俺、初めてフジロックに行く時は、リョウくんたちが、odolが出るときって決めてたんだよね。今年、行くよ。」
 
あの日、フジロックのレッドマーキーのステージで歌ったことは、今までの僕の音楽人生において、最高の体験のひとつです。普段200人や300人といった規模のライブハウスで演奏している僕らには考えられないようなお客さんの数、エネルギーがそこにはありました。
そんな極限状態の中、最前列付近で僕らのステージを見てくれていた彼と彼の友人たちの姿を見つけ、少しリラックスして本番に望むことができました。
 
演奏が終わってから何時間経っても興奮冷めやらぬ中、僕は彼や見に来てくれた友人たちと、フジロックを楽しみ、何度も乾杯をしました。帰り際、僕らのステージを思い出して涙をにじませる彼の姿に、僕も目頭が熱くなったのを覚えています。あの日のことは、一生忘れられません。

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(出演後、ステージから撮った)

今年、久しぶりに彼が出演した新しい作品を見ることができました。僕はとても嬉しくて、何度も何度もそのビデオを見ました。セリフのない映像の中、表情で語る彼はまさしく「俳優」そのものでした。素の状態の彼を知っている僕からしてみても、演技をする彼はとても自然で、映像の中に居るべき人なんだな、と強く感じました。
 
そして幸運なことに、僕も今、音楽を続けることができています。もちろん、あの高円寺の駅前の中華料理屋さんで語り合った夢も、変わらず持ち続けています。
 
いつか彼と僕らの音楽を通して一緒に仕事をしてみたい。
そして、そのあとにはやっぱり、また乾杯したい。

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(フジロックにて。フィールド・オブ・ヘブンを目指す僕ら)

ヘッダー撮影:野本敬大

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