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中村倫也さん、ちょっと私と飲み行きません?Vol.2

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大学生の時、文系学生の就職先なんて営業しかないと思っていた。全国転勤可、総合職という名の=営業職を拒んでいたら、大手企業にはどこにも就職できないくらいだったと思う。結局全然営業職志望ではなかったが、今は営業として働き続けている。

実際の営業職の仕事は10%の楽しさと喜び、90%の辛さと苦しさ、くらいの仕事だと体感している。仕事というのはそういうものかもしれない。その90%の辛さと苦しさの中には同じ環境下にいる同僚との比較や競争がある。常に成果で比較され続ける。「営業担当」と一言で言っても、全員違う人間だし、各個人に個性や得意なこと、苦手なことがそれぞれある。でもそんなことは関係なく、一直線のスタートラインに立ち、同じ環境の中で走り切ることを求められる。

このスタートラインは一見、一直線に見えるが、各個人の得意不得意によってゴールに近いところからスタートする人、スタートラインより後ろからスタートする人、実はそんな凸凹が存在していると感じる。見えないだけで不揃いなのだ。でもそんなことは関係ない。「走り出せ」と言われたら走るしかない。お金をもらう以上、与えられた環境の中で最大限のパフォーマンスをし、成果を出さないといけない。「嫌なことでも辛いことでもやるのが仕事だし、それがお金をもらうことだ」と社会人になった時に先輩に言われた。

ただそれを頭でわかっていても、実際にできるか?というのは別の話だ。いつもは何も感じなくても、心が折れそうになった時、周囲の同僚を見ると思うことがある。「自信があっていいな」と。私は自分に自信がない。世の中は私にできないことばかりだと思う。上手くいくイメージを持ったことがない。そもそも自分がイメージする、“上手くいく”が本当に正解なのか。それはその仕事を享受する人、評価する人によって異なるのではないかと思う。自分が“上手くいく”と思っていても、それが正解とは思えないのだ。自分の中に正解はなく、相手に正解があると思いながら生きてきた。だからなんとなく、「平均以上であれば、それでいい」と思っている。No.1になるために戦う自信は自分にはない。でも周囲には圧倒的に自信を持っている人たちがいる。「自分なら何でもできる」「楽勝っしょ」と言い放つ。そんな人たちを見ると、いつも羨ましいな…と思う。と同時に自信が持てず、他者に評価を委ねている自分に嫌気と劣等感を感じる。


その日も自分のパフォーマンスの低さに打ちひしがれていた。「何故自分は上手くできないんだろう」「自信があったら違ったんじゃないか」と自分に嫌気が差しながらも、仕事をこなし、昼休みにモータースポーツの雑誌を買いに書店に行った。それなりに大きなチェーン店に行ったのに、何故か置いてなかった。その雑誌は私の推しが表紙を飾っている貴重なもので、発売日にちゃんとお迎えしたかったし、それを昼休みに手に入れることを楽しみにその日を乗り越えようとしていた。がっかりした。なんてことだ、これがマイナースポーツへの扱いなのか?と。ムカムカしながら、本当に無いのか?と書店内を歩いていると、ふと目に入った表紙があった。それは真っ青な背景に中村倫也が立っている表紙だった。過去、その雑誌を立ち読みしたことがあった気がしたが、何故か吸い込まれるようにその雑誌を手に取った。

その雑誌のインタビュー内容は年末まで放送していた「この恋あたためますか」で浅羽拓実を演じることにフォーカスしたものであった。リアルタイムの内容ではなく、過去のものではあったが、何故か読んでしまった。浅羽拓実を演じることやドラマについてはもちろん、「中村さんちの自宅から」の話や自粛期間を受けて役者としての立ち位置に対する考えの変化、俳優としての価値など、倫也さん自身の考えに踏み込んでいく内容だった。そのインタビューの中で、ある文章が目に留まった。


「僕、そういうプライドとか誇りとかっていうの、いらないんですよね。間違っているとは言わないけど、自分は、外向けのプライドみたいなものは極力削いでいきたいタイプ。きっとそっちの考え方の方がシンプルだし、自分にとって都合がいいんですよ。行動原理においてスムーズなんです。『中村さんちの自宅から』に寄せられていた質問にも『自分に自信が持てないんです』っていうものがあったけど、その“自信”って必要なのかね?今、雑誌の誌面などでは、この業界の良さを伝えていかないといけない時期でもあるだろうけど。でもそれは僕の美学では、“他者から判断されること”だから。自分の口からは言わないです。商売なんて“必要とされるかどうか”じゃないですか。どうしたって生活にかかってくるわけだから、誇りだけでは仕事していけない。」


心の中にじわっとあたたかいものが広がった。日々生きていると「自信ないの?」「自信持ちなよ」と自信があることが良いこと、という前提で会話が進むことが多い。だから私は自信がない自分をより責めてしまう。自分は皆ができていることもできないのか?と。でもこのインタビューを読んで、涙が滲んだ。安心で胸がいっぱいになった。倫也さんほどの成功を収めている人が自分と同じような考えを持っていること、私のような考えがあっても良いのだ、と認めてもらえたような気がした。他者に評価を委ねてもいい、他者に判断軸を委ねてもいい、と。一方で他者に評価や判断を委ねる、と腹決めするには覚悟がいる。どんな評価や判断をされてもそれを受け入れる強さ。自分の行動に理由や言い分があったとしても相手が良くないと言えばそれが正解だと受け入れる強さ。どんなことがあっても他者に評価や判断を委ねる、と決めたのは自分だという覚悟が必要なのだ。言い訳も言い逃れもできない、しない、という覚悟。


「“俳優としての価値”についての疑問は、僕にとっては今に始まったことじゃないんです。元々、いつ価値がなくなってもおかしくない仕事なんだから。自分から飛び込んでおいて、状況が悪くなったからって焦ったり文句を言ったりするのは違う。“そういう選択をしたのは自分じゃん?”って感覚なんですよ。安全も当たり前もない世界だし、世の中だって時代が変われば、いろんなことが動くから。そこに適応していくのが生物の、種の保存なわけで。まぁ、やるしかないですよね。」


自分から飛び込んでおいて、状況が悪くなったからって焦って文句を言ったりするのは違う-。

私はこの言葉を反芻した。私はその覚悟が持てていない、と痛感した。同じ考えを持っていても倫也さんと私はそこが大きく違う。それだけの覚悟を持てることを生業としている倫也さんをちょっぴり羨ましく思った。と同時に、そういう覚悟を持てる仕事をしたいと思った。その方がきっと仕事も楽しいし、やりがいも感じる。そのためには自分自身の成長も欠かせないな、と。なんだか倫也さんに「君はそのままでいいから、次のステージに向かって足を踏み出しなよ」なんて言葉をかけられたような気がした。

気付けば、この言葉をお守りにすべく、雑誌を手に取って購入していた。胸に抱きかかえて大切に持って帰った。「ありがとう、倫也さん」と心の中で唱えながら。

売れっ子俳優、大人気俳優、テレビをつければ見ない日はないような倫也さんがこんな考えと覚悟を持っていることが意外だった。でもきっとここまで来る間にいろいろ、本当にいろいろあったから、今こういう言葉があるんだと、自分にスッと入ってきた言葉の厚みから感じた。


倫也さん、俳優の仕事に嫌気が差したこともきっとあったはずなのに、ここまでの覚悟を持てるようになるまで、どう自分の気持ちを奮い立たせてきたのか、教えてほしいんで、ちょっと私と飲み行きません?🍻


◆今回のインタビュー掲載誌

◆前回の「中村倫也さん、ちょっと私と飲み行きません?」




おけい


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