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「批判される覚悟が無いなら批判するな」という批判をする

私は批判される覚悟を持たないため、できるだけ他の人を批判しないように気を配っている。だから、投稿ボタンを押す前には「意図せず誰かを批判していないだろうか?」「傷付けていないだろうか?」ということをチェックする。

もちろん、自分の主張が譲れないポイントであれば腹をくくって正面から争う。けれど、些末な論点に関しては「そこにリソースを割きたくない」というのが正直なところだ。

『「カメラマン」という表現は性別を連想させるので不適切だ」』と突っ込まれたらメンドクサイので「写真家」か「フォトグラファー」と表現する。もともとの表現でも性別差別する意図はないし、強いこだわりもない。だから、表現を改めることに抵抗もないかわりに、高尚な配慮や思いやりもない。

私が無頓着なせいで、不適切な表現を踏んでしまうこともあるだろう。その場合は甘んじて批判を受けるくらいの覚悟はある。背中の傷は剣士の恥。

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別のSNSで繋がっているオジサンが「独り言なんだから、いちいち持論で批判されても困る」という旨について投稿していた。この字面だけ見ると、私も同じ気持ちなんだなと気付いた。

だけど、私個人がオジサンに対して「ダサいなぁ」と感じるのは、自分は批判されない場所に立った上で、息を吸って吐くように他人は批判する点である。

具体的には、気に入らない政治家のSNS投稿をとり挙げて「お気楽だ」と批判したり。NYCで取材を受ける人を「立場に相応しくない髪型だ」と批判したり。そして誰かから批判のコメントを受けると、投稿を取り下げて「独り言なんだから...」と別投稿する。ダサい。

私の感覚で言えば、ちゃんと仕事しているかどうかと、余暇をどう過ごすかは分けて考えないと世の中が窮屈になる。だから、仮にちゃんと仕事をしていなかったとしても、私生活を切り取って批判するのはお門違いに思う。
NYCで髪型を理由に「立場に相応しくない」と言うことに至っては、NYCの法律で違法だと定められている。発端は黒人差別だろうけれど、NYCが目指す社会は「他人の髪型に口を出すな」である。

おそらくオジサンとしては、憎き「坊主」を批判する手段として「袈裟」をDISっているのだろう。他の人を批判する意図はなくても、同じ袈裟の愛好者は「自分が責められた」と感じて争いを生む。自由主義者に「袈裟の自由が侵害された」と反論される地雷も踏んでいる。批判される覚悟がなければ、まずは自分が批判するのをやめたらいいのに。

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このことを書いた私も、冒頭に書いた「批判しない」に反して、オジサン批判をしている。今回に限っては、私の批判に対して批判コメントを受ける覚悟で投稿している。

だけど、おそらくオジサン本人とは価値観が違って話が通じなさそうだし、不毛なので議論したいとは思っていない。

私は「自分が批判する/しない」の違いを重んじるのに対して、オジサンは「批判されるのが公人/私人」による違いを重んじているのだろう。善悪の線引きだって属人的なものだと気付く。好意的に受け止めれば、オジサンもかつて公人だったので職業への戒めもあるのだろう。もしそうだとしても、みんなを代表する人をサンドバックにしてよいとは思えないので、やっぱり価値観が合わない。

オジサン自身も選挙で公人に返り咲くかもしれない。そうだとすると「公人だったら批判されて良い」はオジサンへのブーメランになるので、オジサンの理論で以てしても「独り言なんだから」の言い訳は通用しないじゃないか。

そこまで言うと「何でSNSで繋がってんだよ」と思うかもしれないけれど、オジサンすべてが憎い訳ではなく、憎めない側面もある。この投稿では批判してしまったけれど、あくまで悪い部分だけを反面教師と捉えて私自身は「坊主憎いけど、その袈裟めっちゃいいじゃん!」のマインドでいきたい。

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