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退会の挨拶をする気持ちって何だろう

「一身上の都合で、コミニュティを脱退します」「今までありがとうございました」の挨拶って何だろう...という話について。誰かを非難する意味合いでなく、純粋に「何だろうなぁ」と考えている。

例えば4~5人でやっている活動で1人が脱退するとなれば、積もる思い出もあれば、ねぎらいの言葉もあるだろう。それが1000人いるコミニュティだとすると、誰かが居なくなったところで意識すらしない。

頻繁に露出してコミニュティに貢献する人だったら、「そういえば最近見ないなぁ」「忙しいんだろうな」くらいには思うかもしれない。そうでない大半の人だと、退会のご挨拶で「どなたでしたっけ?」と思うことさえある。

インスタ運用やってても、最初は1人のフォロワー失ったことに一喜一憂していたのが、1000人超えたあたりから個人として追わなくなる。良いか悪いかは別として「そういうもの」だと私は捉えている。

そう考える私からすると、大人数いるコミニュティに退会メッセージを残す人の気持ちが分からない。←こう書くと非難っぽいけれど、「筆者の気持ちを述べよ」のように想像しても、純粋に答えがわからない。

退会の挨拶を受け取る側の気持ち

ご挨拶メッセージを目にする人は、その時点でコミニュティに所属しているから目にするのである。つまり、脱退するのと比べて、所属し続ける方がメリットが大きいと判断して所属している。

一方で、退会する人はメリットよりもデメリットの方が大きくなったから退会するのだと考えられる。実際には生活変化かもしれない、ただ、それを観た人は「何か不満があったんだろうな」と想像を働かせる。

残された人からすると、自分は好き好んで所属しているのに、気持ちが離れてゆく人がいるという事実が心をザワつかせる。あぁ、これは同僚が退職する時の気持ちに近いかもしれない。

「他人の評価なんて気にすんなよ」と言う話もあるけれど、もともと自分と同じく好意を持って参加していた人だからこそ、気持ちが揺らぐ。メリット/デメリット判断もAll or Nothingでなく、絶妙のバランスにあるから気持ちが揺らぐのだ。

もちろん、退会する人にはその人の人生があり、退会する自由がある。だけど、わざわざPUSH通知でそれを知らせることに何かしらの意味を感じてしまう。挨拶する礼儀正しさよりも、心の中に起きる不協の方が大きい。

自分を過大評価している説

私の場合は、退会の挨拶をする礼儀正しさ(?)と比べて、前節に書いたような「受け取り手がどう思うか」を考えてブレーキをかけてしまい、退会の挨拶なしにフェードアウトする。わざわざ発言するほど自分が大きな存在だと思っていない。

想定される反論としては「相手はそんな受け取り方しないよ(←少なくとも私はするけどな)」「一部の人が抱く不協より、ちゃんと挨拶する方が大事だよ」「相手がどう思おうと、言いたいこと言わなきゃ」だろうか。

いずれにしても、自分を通す意味において「自分の過大評価」と言える。「過大評価」というと聞こえは悪いけれど、いろいろ抱え込んで行動できないよりは健全である。自分くらい自分を特別視したっていい。

このnoteでも「毎日投稿を辞めました」みたいな記事は多い。私自身も60日連続更新が途絶えたのは個人的な事件(事故)だった。ただ、それは書きたい事ではないし、私のフォロワーでさえ「だから何だ?」と思うだろうから言及していない。でも、書きたくなる人の気持ちも解る。

noteの場合は読みたい人がフォローしているから「嫌なら読まなきゃいい」である。あ、「嫌なら退会すればいい」意味ではコミニュティも同じか。管理者の裁量が大きいことは認めつつ、参加者がつくる空気感もある意味では、参加者の誰もが1票を持っている。

より良い場を求めて1票を投じている説

退会の挨拶が、他の参加者の気持ちに水を差す可能性について書いた。むしろ、何か不満があることを問題提議する目的で、意図的に水を差している可能性もある。

「こんなことがあって嫌だったので退会します」と不満を書く人もいるけれど、書かないパターンの方が多く、実際に不満があったのか判断しようがない。もし不満の言及が直接的に誰かを攻撃することになるならば、書かないのが賢明ではある。

それでも、メリット/デメリットのバランスで揺れている他の人の行動変容を起こすことはできる。他にも嫌な思いをしている人に、改善するアクションを促すとか。退会を迷っている人を後押しして、問題を大きくして気付いてもらうとか。

コミニュティを潰そうとする悪意ではなく、住みよい居場所を得るために一石を投じていると考えれば建設的だろうか。

退会の挨拶をした本人も迷っている説

この節はコメントで頂いた内容から、「退会します」と挨拶した本人が、継続 or 退会で悩んでいるという説はありそう。

公言しちゃったのだから後戻りできないという「踏ん切り」のために書き込んでいるのかもしれない。もしくは、まだ迷っているので理由を聞いて「止めて欲しい」のかもしれない。

いずれにせよ、自分の気持ちを整理するために1000人を利用するのは、まぁまぁ自分を高く評価しているなぁと感じる。

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判断の理由を整然と説明できるのは後付けであり、脳は同時に複数の可能性を考えるものだとか。この意味で、複数ある説のどれもが正しくて不思議ではない。答えを知りたい気持ちもありつつ、いろんな説を集めることで近づける真理もありそうに思っている。

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