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#159:荻本快・北山修編著『コロナと精神分析的臨床 「会うこと」の喪失と回復』

 荻本快・北山修編著『コロナと精神分析的臨床 「会うこと」の喪失と回復』(木立の文庫, 2021年)を読んだ。本書は2020年8月に開催されたオンラインでのシンポジウムが元になっているとのこと。

 本書には、対面での面接の継続が困難な状況に追い込まれていく過程の中で、事態が始まって数ヶ月という早い段階での、精神分析的な心理臨床を実践している臨床家たちの取り組みと、自らの取り組みをめぐる考えや思いが、語られ、あるいは綴られている。時期的に、速報的なレポートという性格が濃厚であると言えるが、こうした立場で実践を行っている臨床家たちにとって、これから考えていくべき重要なポイントが、すでにいくつも指摘されている印象がある。

 対面の面接からオンラインの面接へと切り替えていく中で、あるいはオンラインへと切り替えることを見送って対面での面接を一時中断する中で、クライエントと心理臨床家のそれぞれに生じた揺れが、複数の報告者によるいくつかの印象的なエピソードを通じて、重層的に、重ね描かれている。私自身の経験と重なるものもあれば、経験は重なりつつも私にはなかった気づきにハッとさせられたり、私自身は未経験の事態に考えこまされたり。

 いずれのレポートにも共通しているのは、多くの精神分析的な心理臨床家が対面で面接で行うことの意味と価値を、それを一時的に失う、あるいは失う危機に直面する中で、これまでとは違った形で、経験がない形で、改めて考えることを突きつけられ、余儀なくされたことである。自分が何を喪失したのか、あるいは喪失しようとしているのかを、経験として実感させられることで、私たちは自分自身が無自覚のうちに慣れ親しんでいたこと、享受していたこと、耐え忍んでいたことに、改めて気づくことができ、それらを改めて、あるいは初めて、見つめ直すことができるのだろう。

 しかし、そうした喪失や喪失への不安に向き合うことは、クライエントにとっても、心理臨床家にとっても、同様に、自らのあり方を大きく揺さぶる可能性を秘めており、ときに大きな困難を伴う取り組みとなる。ましてや、独りで取り組むことは、ひどく難しい。だから、私たちは、何らかの形でつながりを維持しようとし、それについて率直に語ることに努めようとするのだろう。

 本書で私が最も感銘を受けたのは、山本雅美氏のレポートである。山本氏のレポートには、本書の副題となっている、「「会うこと」の喪失と回復」という主題が、幾重にも重層的に織り込まれていて、深く心を動かされた。

 山本氏が述べていることの一部を、私の理解にしたがって端的に表現するなら、同じように「見えない」経験であっても、「はじめからない」という経験と「あったけれど失った」という経験との間には意味深い違いがあるということであると思う。こう書いてしまうと、当たり前のことを述べているに過ぎないと思われてしまうだろうが、この違いの意味が私たちの人生や日々の生活に、そして心理臨床の営みにもたらすものは、一見したときの印象よりもはるかに重要であると私には思われる。「失うことを感じられる掛け替えのなさ」(p.93)という山本氏の言葉には、容易には汲み尽くすことのできない含蓄があると、私は思う。

 精神分析的臨床の、あるいは心理臨床全般の本質は、「会うこと」にこそあるのかもしれない。では、「会うこと」を成立させる要件は? 「会うこと」の本質とは? 今、コロナ禍を経験する中で、改めて私たちに差し向けられている問いとして、私は受け止めたい。