私がわたしである不思議

こんにちは、落合雅です。

今日に限った話ではないのですが、最近よく「わたし」が「私」として生きていることに不思議な感覚を覚えます。

就職活動をしながらいろんな人の生き方を見て、聞いて、読んで、「ほーそうか、そんな生き方もあるのね」と思ったり、道端を歩く人を見て「この人はどんな生き方をしているんだろうか」と思ったり。そうやって考える中で「私はどうやって生きてるんだろう」「私はどうやって生きていくんだろう」と考える。そんな時「わたし」が「私」である不思議を感じる。

私はよりによって「わたし」として生まれた。
他の誰でもなく「わたし」であることは、あたりまえかもしれないけど、結構不思議だと思う。

なんでもっと能力がなかったかな
なんでもっと考えられなかったかな
なんでもっと楽しめる人間じゃなかったのかな

もともと、それらが上手い人をみて
「なんでわたしは」
と思うけれど、そこに理由があるとしたら、「わたしは私だから」しかないだろう。

わたしはよりによって「わたし」として生まれた。
嬉しくて、悔しくて、かなしくて、ちょっと面白い。

こんなことを考え始めたということは、少しは自分の人生への当事者意識が芽生えたということだろう。

私は、わたしが「わたし」であるとわかった時、二つのことに気づいた。

一つは、わたしであるのは「わたし」しかいないから、わたしが誰よりも「わたし」について悩んで、気にかけてあげなければならないということ。

二つ目は、わたしが「わたし」として生まれてきたことを楽しみたいということ。
わたしは「わたし」として生まれてきた時、およそ80年ぐらい稼働できる体と、一人の「わたし」として生きていくためにまだ未熟な「わたし」を支えてくれる家族をもらった。
ありがたいことだと思う。
だけど、いろんな人間と会う中で自分に「欠けたもの」を見つけ、否定したくなるし、逃げたくなる。そして挙げ句の果てに楽しくなくなる。
わたししか「わたし」であることを楽しめないのに。なんてもったいない。
だから、わたしは「欠けているわたし」で楽しみたい。なんなら、かけているのは誰かとうまくひっついて化学反応を起こすための欠けかもしれないし、アートの一つである可能性もある。(いいすぎた?いや、これぐらいは言っていいはず)

皆さんは、「自分」として生きてますか?
「自分」として生きることは辛いです。
でも、たぶんすこし面白いです。

では、わたしは、明日もわたしとして生きていくべく、今日のわたしとの「お疲れ様会」と明日のわたしとの「頑張ろう会」をして就寝したいと思います。

では、また明日


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