お茶あれこれ4 2015.0222~

1. 武野紹鴎
紹鴎はもともと連歌師。それゆえだろう、連歌の仕組みを茶の湯に転じた。
連歌は、季節・色合い・歌枕・名物・本歌を使って詠み編んでいく。類似・比喩・対照・対立・付属・共振・引用・強調・重用を連ね、連想を鍛えぬく。「乙女子が葛城山を春かけて」という前句に、「霞めどいまだ峰の白雪」と付ける。「春」から「霞」や「白雪」を連想するのは分かり易い。「葛城」の黒に対して「白雪」の白は、知識が要る。

こんな連想から「見立て」の面白さが深まる。連歌に慣れ親しんだ紹鴎は、そこを茶の湯に引用していった。紹鴎が道具を見立て、奥行きを与え、磨き抜いていったことで、格式ある武家茶の湯は洗練されていった。もともと茶の湯の道具は、唐銅や青磁など中国から来たものを飾ったり、用いたりしてきた。その場所が、壁面や押し板から床の間、付け書院、違い棚になる建築様式の変化があり、それにつれて、道具も和物が見立てられたり造られたりしてくる。この時期は「道具あっての茶の湯」であり、「茶の湯あっての道具」には、利休の出現を待たねばならない。利休の名は、最晩年(天正13年=1585)に正親町天皇に茶を献じるにあたって、いただいたものであり、それまでは宗易の名である。その利休も、60歳頃までは古典的な唐物道具や書院の茶を徹底的に研究している。

紹鴎はこう言っている。茶の湯は、一に結構、二に手続、三に趣向にある、これを「作分」という。「作分」とは、茶事に新しい工夫を凝らすこと、趣向を作ることを言う。ただ、教えられた通りに覚えているだけではなく、そこに独創性があって始めて、茶の湯と言えるかもしれない。ただし、あの宗易でさヘ60歳頃まで研究し身に付けることに没頭したことを思えば、覚えることも覚束ない私たちに、独創性などと言えるものはあるまい。それは単なる、稽古不足と言うものだろう。

紹鴎が、茶の心を表すとして取り上げた藤原定家の歌がある。
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮」である。
表面的に見れば、なるほど寂しい秋の夕暮を詠っている。華やかなものは何もなく、粗末な漁師の小屋があるばかりだ、と。侘びた風情ではある。茶の侘びとしてはそれでいいのかもしれない。定家の知性と感性、彼の仕掛けは更に奥深い。「花も紅葉も」「浦の苫屋」は源氏物語に踏み込んでいる。公家たちは、四季折々の趣を盛り上げるために浦の苫屋を作った上で、楽しむ。物語の優美な雰囲気を下地に、想像の中の侘びた世界を詠んだ。

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