お茶あれこれ8 2015.0227

1. 六古窯
鎌倉室町期に、瀬戸を中心に製陶が広まった。瀬戸・常滑・信楽・越前・丹波・備前をいう。桃山時代まで、美濃の土岐氏が陶窯を保護し、志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部の土壌を作った。土岐氏は斎藤道三に滅ぼされるが、信長、秀吉は保護を継承する。茶陶に関する限りは、土岐・斎藤・信長・秀吉・家康が、尾張・美濃を基盤としたことは幸運だったのかもしれない。保護があり、外国との交易があり、交流や指導があった。禅宗から始まった文化の広がりを背景として、陶芸は天下人による茶道具から興隆する。

白磁や青磁は絶賛しながら、技法は解明できなかった。白磁に似せて焼いた陶器が「志野」、青磁に似せた和物が「黄瀬戸」、真似として始まるも、そこには明確な存在がある。唐物に対する羨望や格式は持ちながらも、和物としての美を見出していった。強烈な自意識を隠し、「こんなものしかありませんが」と詫び乍ら出す「和物」。それは、「侘び」ではあるが、僅かの違いで鼻持ちならぬ臭さになる。茶人たちが狂喜した、「井戸茶碗」、「三島」、「斗々屋茶碗」などの高麗茶碗も、もとは単なる飯茶碗。土器や木器、漆器で日常を送っていたこの国では、高麗は珍しかった。「見立て」を文化まで昇華させた茶人たちがあって、日本的な陶芸も洗練された。

2. 千利休
水墨画は禅僧の余儀として発達し広がっていったが、戦国大名と築城の時代に合わせて、禅宗派と異なる法華的なアートの流派である狩野派が襖絵や屏風絵に流行ってきた。禅は公家と武家の宗教だったが、法華を支持したのは経済力を蓄えた町衆だった。村田珠光の始めた「草庵の茶の湯」は京の町衆から各地へ広がる。武器や外国の事物から茶道具にまで、信長と堺の町衆との対立は深まり、宗易は覚悟をする。「茶点人が別室の炉で点てていた」茶のかたちから、「炉を中央へ引き出し、自身が点前を見せる」様式を生み、「信長の名物狩り」に対して「名物は自分が創りだす」という意識を見せた。長次郎の楽茶碗、与次郎の釜、竹花入れ、など、路地から茶室、掛物、道具、料理、花、所作、全てが革新と独創に満ちていた。

だからこそ、利休は「自分の茶の湯を引き継ぐのは織部だ」と言ったのだろうが、それは模倣や継承より創造と独自性を重んじた利休の理念とも言える。利休の継承者と言われ、利休を崇拝しながら、織部はかなり違った。
収斂と精神性の利休に対して、開放と感性の織部か。露地の植栽や茶室の形、道具その他の取り合わせに、それぞれの個性が溢れる。利休は楽を指導し、織部は志野や唐津を育て、伊賀や美濃に美を見出した。

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