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【自己紹介No.8】 奥宮 誠一(Wistant)

こんにちは。RELATIONSのトップランナー(最年長)こと、奥宮(おくみや)と申します。

古き良き年功序列な組織であれば「最年長」といえば神にも等しいポジションではありますが、幸か不幸か、RELATIONSでは年齢が上がるほど周囲の連中からイジられやすくなるという傾向があります。愛称「猫おじさん」こと、奥宮と申します(2回目)。

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所属は、加留部さんと同じWistantチームで、エンジニア兼PdM(新米)をしてします。また社内バンド「ポワソンズ」ではドラムを担当してます。

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1. 経歴

RELATIONS にはエンジニアが現在6名在籍してますが、自己紹介リレーに登場するのは初めてですね。ひとくちに「エンジニア」といっても、メンバーそれぞれにバックボーンが違うので(まったく違う!)、まずは自分が先陣を切って経歴などお話したいと思います。

1997年3月  早稲田大学 第一文学部(哲学科)卒業
      (音楽時代)
2000年1月  プラト株式会社 入社
2015年3月  RELATIONS 入社

〜 学生時代

1974年生まれ、神奈川県横浜市都筑区出身。横浜というと都会のイメージがあるかと思いますが、自分の住んでたところは当時、田んぼや竹やぶが周囲にいっぱいあるような田園地域で、同級生には牛を飼っている家もありました(本当の話)。そんなのどかな環境の中、のんびりと学生生活を過ごしました。

高校くらいまでは基本的に優等生キャラでやれてたのですが、大学で思いっきり挫折。遅れてきた思春期というか、周囲の優秀な連中と自分を比べて自信を喪失し、学科も哲学なんて選んだもんだから世間嫌いに拍車がかかり、もんもんと孤独で非モテな大学時代を過ごしました。

大学4年になってもまったく就職する気が起こらず、とりあえず大学院にでも行こうかと思ってました。が、ゼミの教授に「哲学で院に入ってもその先に良いことない。本だけ読めれば飯はいらないという人間にしか勧めない」と脅され、あっさり進学は諦め、卒業後の進路が未定のまま、地方公務員になるための勉強を始めたりしてました。

そんな折、4年生の冬に、高校時代の友人(Iくん)から「一緒に音楽でプロデビューしないか」という誘いを受けます。

自分は子どもの頃から楽器演奏が得意で(幼少時はヤマハ音楽教室、中学からは吹奏楽部で打楽器)、高校ではブラバンのほか、軽音楽部の連中に頼まれていろんなバンドでドラムを叩いたりしてました。そんなバンド仲間のひとりがIくんでした。

Iくんは音楽(とくに洋楽)はめちゃ詳しいけれど楽器はまったく弾けないという、自分とは真逆のタイプ。ただ、当時から「音楽でプロになる」と公言しており(自分は「それ絶対ムリ」と思ってた。ほんとごめん)、卒業後はこつこつ曲を作って宅録してデモテープをレコード会社に送ったりしてたそうです。そのデモテープの1つが、とあるインディーズのレコード会社の目にとまり、「うちでデビューしないか」的な展開となり、前述のとおり自分にもIくんからお声がかかった、という次第でした。

お誘いを受けたものの、自分にとっては降って湧いた話だったし、当時は「公務員になって市井の人々の役に立ちたい」という使命感で燃えていたし(いま思うとほんと謎)、どうしたものか本当に迷いました。もし就職先とかすでに決まっていたら、間違いなく断ってたでしょうね。ただ、幸いにして進路はまだ白紙だったのと、「自分の音楽も、世の人々の役に立つと思うよ」というIくんの口説き文句に背中を押され、最終的に2人ユニットとして一緒に音楽の道に進むことになります。

音楽時代

レコード会社(兼、音楽事務所)と契約したあとは、マンションの1室をプライベートスタジオとして用意してもらい(防音室やDTM機材など制作環境を整えてもらった)、ともあれCDを出すことを最大の目標に曲作りなどしつつ、平行して月数回ライブハウスのイベントに出るような感じの生活でした。なんの実績もない新人に対して、ほんと恵まれ過ぎている条件でした。給料も固定給でもらってました(ぜんぜんバンドマンぽくない)。

曲を作るのはもっぱらIくん。自分は、デモ音源制作とかアレンジとかマニピュレーター的なことを手伝ったりしましたが、創作そのものにはまったく貢献ができず、実際のところライブやレコーディングの合間は結構ヒマだったりしました(この時期にもっと本気で食らいついて音楽に取り組んでおけばと、それだけは今でも後悔しています)。

当然ながら、事務所からチヤホヤされるのはアーティストであるIくんで、自分に期待されているのは彼のサポート役。それが悔しくて妬ましくてもんもんとしつつ、かといって曲を作る才能も努力も足りてない自分がいて、その狭間で挫折感がどんどん募ってました。

そんなわけで、Iくんとの関係も徐々にギクシャクしてしまい、契約から3年ほどたったころ、彼のほうから「いっしょに音楽はできない」と切り出されユニットは解消。ほどなく自分は事務所との契約も解消し、音楽の道から遠ざかることになりました。

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振り返って、短い期間だったけれど貴重な経験をさせてもらったこと(第一線で活躍しているミュージシャンやレコーディングエンジニアと一緒に仕事させてもらったり)に心から感謝なのと、一方で、そもそも覚悟のない人間が惰性でやってても成功はできない世界だったし、挫折は必然だったなと。音楽に限らずどんな業界だって(エンジニアだって)そうですよね。あとひとつ、「モノを作る側の人間でありたい」という価値観は、この時期に強烈に刷り込まれました。

ソフトウェア開発の道に

音楽を辞めてすぐ、2000年1月(25歳のとき)、コンシューマ向けPCソフトを企画・開発・販売している小さなソフトウェア会社に就職しました。

社長(当時30代)が1人で立ち上げたというその会社は、数年前にパソコン初心者向けの「タイピング練習ソフト」がスマッシュヒット。その資金でレコード会社を立ち上げ、アーティストを募集し、Iくんのデモテープを聴き、、、。ん?
つまり、契約していたレコード会社が、本業はソフトウェア会社だった、というオチです。音楽を辞めて行く先のなかった自分を、まったく経験がないにもかかわらず、本業であるソフトウェア開発のほうで拾ってくれた形でした。

会社は当時、社長のほか女性社員が2名と業務委託のエンジニアが1名、アルバイト数名、という規模感。教育体制などはもちろんなし。ただ、勉強のための時間もお金も自由に使わせてくれる環境だったので、本とか雑誌とかイベント参加とか、ありがたく活用させてもらいました。

時代的には「ITバブル」で、ECなどのネットサービスが一般にも普及しつつあるころ。そんなトレンドを踏まえて、自社ではあまりナレッジがなかったウェブ系のプログラミング(Java, PHP)やLinuxでのサーバ構築などを重点的にインプットさせてもらいました(原田洋子さんのservlet本には大変お世話になりました)。この時期に基礎的な知識をじっくり学べたことは、現在の業務でも財産として生きています。ド文系だった自分がエンジニアとしてまかりなりにも仕事できるようになったのは、このころのおかげです。気長に機会をくれた会社には本当に感謝しています。

修行時代

勉強やコーディング以外にも、製品開発に関連するいろんな業務をやりました。ユーザサポートの電話対応とか、プロトタイプのテスターとか、新製品のアイディアのブレストとか、コンテンツ開拓とか、ちょっとした営業同行とか、ソフトで使う効果音の作成とか。小さい会社だったので、全員で開発に関わっている感じでした。

とくに印象に残っているのは、製品リリースに向けた追い込み作業です。ウェブサービスとは異なり、パッケージソフトは一度リリースしたら容易に変更できないので、マスターROMの納品は一大イベント。納品の前日ともなると全員でひたすらバグ出し。これほんとに間に合うの?というピリピリした空気の中、徹夜でデバッグして、明け方にマスターROMを焼いて…からの、みんなでビール乾杯!は、なんともいえない充実感がありました。

モノづくりの側面でいうと、社長は「ユーザ感覚」をすごく大事にしている人で、自分もそこには強く影響を受けました。例えば、ユーザサポートで電話では対応しきれない場合、社長が直接ユーザのお宅に訪問したりしてました。一義的にはもちろん困っているユーザのためですが、理由はおそらくそれだけではなく、自身の作ったモノが実際にどのように使われているかを直接ユーザから吸い上げていたのだと思います。また、社長は普段から日経新聞とかではなく大衆夕刊紙(日刊ゲンダイとか)を好んで読んでいました。自社製品のメインターゲットである世の中の「普通の人々」がいま何を感じているのか、どんな欲望がありどんな不満や不安があるのか、みたいなことを大衆紙を読むことでベンチマークしていたのだと思います。

ヒット・プロダクト

そのようにして発想された新製品のタネは、プロトタイプ段階で社内で徹底的に検証しました。そのわかりやすい成功例は、2002年にリリースした英語学習ソフトです。

もともとのアイディアは、英語にコンプレックスを持っている層をターゲットに、英文タイピング練習ソフトを出そう、というものでした。自社のリソース(製品としてあったタイピングソフトと英単語のコンテンツ)を組み合わせたら?くらいの、軽い発想でした。さっそくプロトタイプをつくり、社内で試したところ、いまいち面白くない…。

そこからプロトタイプをベースにさまざま試行錯誤を行いました。そして解として行き着いたのが、例文を見たまま打つのではなく「聞いて、打つ」というディクテーション形式でした。トレーニングとして適度な手ごたえがあり達成感もあり、なにより面白い!その結果、「英語教材ソフトは売れない」という業界の定説を覆す大ヒット商品となりました。

「聞いて、打つ」形式だと「聞く」ことに自然と意識が集中するようになることがキモで、ふだん英語を聞きなれていない人ほどトレーニング効果が高く短期間で成果が出ます。…というようなことを事後的に説明するのは容易なのですが、そもそも実際にプロトタイピングしなければ「聞いて打つのが面白い」という発見はできなかったと思います。この「発見」こそが、ものづくりの醍醐味だと思っています。

この製品はその後、PCソフトの枠を超えて他媒体(ケータイ、Nintendo DS)でも商品化されました。とくにDS版(2006年リリース)は、本家の任天堂が開発を担当(自社はコンテンツ提供)、累計200万本を超える大ヒットとなりました。自身が関わった製品が世の中にインパクトを与えるさまをはじめて間近で体験し、「ヒット」するというのはこういうことなのか…と脳ミソが痺れる感覚を味わいました。

ゲーム開発

DS版の大ヒットを契機に、新たにエンジニアを採用し、自社でもDS向けのゲームを開発をするようになりました。エンジニアが増えて1プロダクトを複数人で開発するようになると、必然的に交通整理をする役割が必要になります。このころから自分がその役割(開発ディレクション)を担うことが多くなりました。コードを書く量は減りましたが、ゲーム開発の経験がある優秀なエンジニアと一緒に仕事をするようになり、自分1人で作るより数段優れた製品をチームとして作る楽しさを感じていました。

自社のDSソフトの第1弾(DSギター)は、セールス自体は芳しくありませんでした。が、プレイ動画をみた海外の大手ゲームパブリッシャーから問い合わせがあり、海外版を共同開発することになります(わらしべ長者のような展開)

音楽に合わせてギター(DS)を弾くという音ゲーで、ゲーム部分の開発は自社、ビジネスとコンテンツ(選曲、音源、アートワーク)はパブリッシャー側のUSチーム、ローカライズはUK、QAはインド、のような制作体制でした。環境が一気にグローバルになり、視野がものすごく広がりました。また開発に関しても、このころから社長のチームとは別ラインで上流工程から任せてもらえるようになり、コンセプトからゲームデザイン、UIデザインまでガッツリやらせてもらった初めての仕事でした。ハードワークでしたけれど、良い経験でしたし自信にもなりました。

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その後、スマートフォンの普及にともない、プラットフォームをiOSに切り替えて開発するようになります。

DSギターのノウハウを生かし、次はiPhone向けにギターアプリを作ることにしました(当時iPhone 3Gくらいの頃で、楽器アプリもジャンルとしてまだそれなりに人気がありました)。いろんな楽器アプリ・ギターアプリを触ってみたところ、とりあえず音が出る子供だましみたいなものばかり。演奏して楽しい!と感じれるものが1つもなかったので、「演奏感」にこだわろうとテーマを定めました。そこからはプロトタイプ作りの日々…。企画から完成まで1年半かかってしまいましたが、最終的に自分としては納得のいくクオリティのアプリができあがりました。(ちなみにこんなアプリです。)

期待に胸躍らせながら有料アプリとしてリリースしましたが(2011年5月)、まったく売れず、App Storeに露出すらされず。ウェブマーケが得意な人の力を借りてSNSなどの施策もうちましたが、それもとくに響かず、2ヶ月くらい手応えなしの状態が続きました。時間かけて作った自信作がこのままユーザに使われずに終わるのはあまりに口惜しいので、最終的には無料アプリに切り替え、なんとか瞬間最大風速でApp Storeの無料アプリランキング総合の2位まではいきました。アプリがそれなりにDLされ、愛用してくれる人も一部いたので(いろんな国の人から好レビューもらった)、作り手としてはギリギリ報われました。

が、ビジネス的には大失敗。マネタイズの仕組みが甘かったし、トレンドも完全に逃してしまっていました(1年半のあいだに楽器アプリのジャンル自体が盛り下がっていた)。自分のビジネスセンスのなさを痛感する手痛い学びとなりました。

迷走

ギターアプリのセールス的な失敗のあと、次に何を作ろうか、企画のタネをいくつか出してみたものの、どれもしっくりとせず、完全に行き詰ってしまいました。

「怪盗ロワイヤル」などのソーシャルゲームが大ヒットして莫大な収益をあげているのを横目に、付け焼き刃でソシャゲの企画を立ててみたり、食や健康をテーマにサービスのネタ探しをしたり。でも、どれも中途半端だったし、自分自身が心底作りたいと思えるものでもなく、とても開発に着手できるような代物ではありませんでした。世の中的にも、東日本の震災のあとの沈痛なムードがあって、のんきにアプリとか作ってていいのかなあ...なんて内向きなマインドになったりもしてました。

そんななか、会社として開発チームを1つに統合するという話があり、自分のロール的にはエンジニアとしてのバックエンド開発がメインとなり、少しずつ自身のモチベーションが保ちづらくなっていました(他責にするようでまったく情けない話ですが...)。

セールスで貢献できなかったという申し訳なさと、そもそも初心者だった自分を拾って育ててくれた感謝と、いろんな感情がぐるぐる交錯していましたが、新しいことに挑戦するためには環境を変える時なのかな...とだんだん考えるようになりました。

2. なぜ RELATIONS を選んだのか

RELATIONSは、たまたま転職サイトで見つけて応募しました。1社目に別の会社の面接に行って、社内の空気がなんとなく重いなと思ってすぐ辞退。2社目に行ったのがRELATIONSでした。会社に足を踏み入れたとたん、社員の人たちから「こんにちは!」と大きな挨拶があり、なんて感じの良い会社なんだ!と思いました。笑

しっかりとした収益の上がる事業(Less is Plus)を持ちながら、ユニークな新規事業にチャレンジしていることにすごく魅力を覚え、その後もトントンと話が進んで、とくに他社をみることもなくRELATIONSにエンジニアとしてジョインすることを決めました。

同時期の入社だった加留部さんも書いていますが

RELATIONSに入ったのは「どんどん新しい事業を作っていきたい!」というキラキラ大学生っぽい理由もありました。しかし、入社してから1週間で「BtoBの購買領域に集中する」という方針の変化がありました。

ちょうど戦略上の方針転換があり「新規事業はBtoBに限る」ということになりました。ずっとコンシューマ向けに開発をやってきたので、残念な思いも少しありましたが、やったことのない領域への挑戦とポジティブに捉えることができました。

入社後は、いくつかの新規事業の立ち上げに携わり(残念ながら現在はクローズしています)、現在はWistantを絶賛開発中です!

3. RELATIONS での業務内容

メインの業務は「Wistantの価値を最大化してユーザの課題解決に貢献すること」です(優等生)。

エンジニアチームとして、Wistantの機能開発や運用改善を行なっているのと、最近はプロダクトマネジャーとして「何を作るか」の部分を考えたりしています。

「ピープルマネジメント」がWistant導入各社に浸透し、メンバーもマネジャーも、生き生きとパフォーマンスが発揮できるような組織となるよう、プロダクト(サービス)を通じてそのお手伝いができればと思っています。

Wistantのほかは、ポワソンズ、チームヘルシー、ビール部、ねこ部(脳内)、それからエンジニア採用担当などもやってます!

4. 次のバトンは…?

社会人をなんだかんだ20年以上やっているので、振り返ると色々あって、経歴の話(自分語り)がたいへん長くなってしまいました。お目汚し失礼しました。

さて、次のバトンは...

同じくWistantチームでエンジニアとして活躍している、久原さんにパスします!

RELATIONSでは最古参のエンジニアでテックリードの久原さん。とある動物にもたいへんお詳しく(猫ではないです)、そのあたりの面白い話がきっと聞けるかと思います。お楽しみに!

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