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翠玉の霊酒・シャルトリューズとは何か(旧ブログから転載:2019/05/26付記事)

本来であれば、美術について、ユーゲントシュティールとは何かについて纏めている予定の項なのだが、「様式」を相手に文章を書こうなんて、一筋縄ではいかぬ。インプットが追い付いていない。

そこで、この「青春様式」は一先ず棚に押し上げて、片手間に、今尚現在進行形で私の「青春」である洋酒についての事柄を何か、語ることとしよう。

緑色をした美酒がこの上なくわが身のエスプリを痙攣させる。一つは、「緑の妖魔」に息を吹き込まれたアブサンと、そしてもう一つは「リキュールの女王」と称されるエリクサー、シャルトリューズである。

アブサンについては、数多の蒸留所から生み出され、星の数とまではいかないだろうが年々新たな銘柄が誕生し、その歴史を見ても、選りすぐりの芸術家に愛された魔酒であり、語りたい文化的背景が余りにも広範にわたるから、これも記事にするには未だ時期尚早感がある。これらのボトルは棚に上げよう。

というわけで今回はシャルトリューズのボトルをバックバーから手に取った。この歴史について焦点を定め綴っていこう。
まずは文学の切り口から話はじめることを許されたい。

我が敬愛する文筆家、澁澤龍彦の翻訳による、ユイスマンスの『さかしま』という小説をご存じか。
これは「デカダンスの聖書」である。出版されたのが1884年。まさに今、我がライフワークに、と定めた20世紀末芸術の灯の中で、まさしく頽廃を象徴する書物なのである。

言ってしまえばこれは僕の美意識の見本であり、余りにも煌びやかな描写たちで文字を追うのにすらクラクラしてしまうのだが、その一節にこうある。口中オルガンについての箇所だ。

「...それぞれの酒の味覚は彼にとって、楽器の音に対応していた。たとえば辛口のキュラソオは、酸味をおびた滑らかな歌声のクラリネットに対応し、キュンメル酒は、鼻にかかった響きのよい声のオーボエに対応する。薄荷と茴香酒とは、同時に甘くて辛く、すすり泣くかと思えば優しいささやきを洩らすフリュートに相当する。また、桜桃酒は荒れ狂うトランペットの響きを奏で、これでオーケストラがぜんぶ揃った勘定になる。さらにジンとウィスキィは、コルネットとトロンボーンの甲高い音響をもって口蓋を刺戟し、ブランデーは、チューバの耳を聾する轟音とともに鳴り響く。一方、キオス島産の阿剌吉酒と乳香とは、力いっぱい叩くシンバルと太鼓の雷鳴にも似た連打とともに、口腔中をころがりまわる!…類推はさらに永びいた。音の関係はリキュールのなかにも存在していた。一例のみを示すというと、シャルトルウズ・グリーンという銘柄で呼ばれているアルコオル飲料が長調をあらわすとすれば、ベネディクティン酒は、いわば短調をあらわすのである。」(澁澤龍彦訳)


いかがだろうか。酒を愛する同士としては、何とも二つと並び立たない旋律のような美しき比喩だとは思はないか。

この後半部分に出てくる「シャルトルウズ」というのが所謂今日のシャルトリューズのことである。文字通りの長調として、今尚僕らを、魅了してやまない美酒なのだ。そして最後に出てくるベネディクティンは文字通りというよりは、単調な酒に成り下がってしまっている様な気もする。

引用前半部分に出てくるキュラソーもキュンメルも、同様に掘り下げたいが、今はまだその時ではない。

『さかしま』にシャルトリューズが登場するということは、当時のフランスにおいてこの美酒は知名度において市民権を持っていたといっていいだろう。

そんなシャルトリューズは、この現代日本においても、いかなるバーの扉をくぐっても、きっとその酒棚には緑と黄の二種類のボトルが置いてある(と信じたい)。それほどまでにカクテルパートナーとしては欠かせない洋酒であろう。

もしかしたら、V.E.P.というアルファベットのあしらわれた特別なシャルトリューズとの邂逅が果たせるバーもあるだろう。このV.E.Pとは長期熟成品の略で、樽で八年以上寝かせた、緑と黄、両方に存在する上級品である。

シャルトリューズという霊酒の誕生について、キリスト教の歴史を踏まえておかないことには深堀することは叶わない。
だがしかし、(例によって)既に原稿の量が膨大なため、掻い摘んで記していこう。

シャルトリューズという名は、1084年に創建された修道会の名に起源を持つ。
ベネディクティンやエギュベルといった銘柄と共に、修道院の自給自足の生活の中から生まれいでたモナストリーリキュールの一種で、正にエリクサーの名を冠するに相応しい神秘の美酒なのである。

この修道会を建てたのはドイツはケルン生まれのブルーノというランスの司教だった。彼は1080年、ユグという名の司教が仏南東部グルノーブルで任命されたのを知る。
ユグは優れた人格の持ち主で、忽ち教区の人民から信頼を受けるような高潔な僧侶だった。

世俗の垢にまみれたランス教区の同僧に辟易していたブルーノは、6人の信頼のおける同僧のみとランスを離れ、ユグの元に身を寄せることにする。
ユグはブルーノたちを手厚くもてなしながらこう語る。

「つい先日、夢を見ました。神が、荒野に神殿を建てているのです。そして、空に輝く七つの星が、その荒野への道のりを示していました。そこは、ここからさほど遠くないところのようでした。」

この話を聞いたブルーノは、そここそ、我ら七人が隠匿すべき聖なる場所であると確信し、ユグにその地まで案内してもらうことになった。
その地の名は「シャルトリューズ」。
これこそが、シャルトリューズ修道会とラ・グランド・シャルトリューズ修道院の起源である。

ブルーノ自体はその後、教皇ウルバヌス2世(十字軍の提唱で教科書にも載っていますね)の要請により、伊南部カラブリアに修道院を新設するために赴任を余儀なくされ、その地で1101年に天に召された。しかし、ブルーノの意志は引き継がれ、仏各地に修道会の支部が誕生している、今日ではその支部数は20以上とのことである。

さて、ここからが酒としてのシャルトリューズの誕生秘話だ。
上記修道会の支部の一つが、パリの城門外のVauvertにあった。ここに、時代は流れること1605年、羊皮紙に記されたエリクサーのレシピが寄進されたことが物語の始まりである。
ボトルに記される1605の年号は、これをもとにしているということだ。

このレシピ自体が誰によって齎されたのかは定かになっていないようだ。
おそらくは、1580年頃、薬草や薬草酒についての豊富な知識と技術を持った錬金術師が編み出したのがオリジナルであろうと推測はされているとのこと。

このレシピは一旦アンリ4世(ブルボン朝を創始し、ナントの勅令を出し、ユグノー戦争を終結させ絶対王政化を促進したことで教科書にも載っていますね)との愛人関係にあった家柄、エストレ家が所持していたようで、その後、修道会に寄進されたということまではわかるようだ。

このレシピの内容は、130種類の草根木皮を調合し、蒸留するというもの。しかし、パリ近郊の修道会支部の近辺でこれらの香草を集めきることなど到底不可能であったことから、暫くはこのレシピは顧みられず、書庫の奥底にしまわれてしまったらしい。

それから悠久の如き時は流れ1735年のこと、このレシピは南仏はヴァール県ヴェルニュ村の修道会支部に移送されていた。その支部の会士である薬剤師、ジェローム・モーベックという男がこれを引っ張り出し、このレシピが意図していたエリクサーを再現するのに成功したのだった。これこそ、主に貴族階級に愛用され、今では一般に販売されている「Elixir Vegetal de la Grande Chartreuse(ラ・グランド・シャルトリューズ修道院で生まれた植物性の霊酒)」の前身だ。

これの現行品は度数69、エキス分11%、100mlの小瓶で、如何にもな樹の入れ物に入って販売されている、そうあれだ。あれは最も原理主義的なシャルトリューズなわけなのである。

さてさて、その先の話だが、彼はラ・グランド・シャルトリューズ修道院(つまりは総本山)に移り、そこでオリジナルとは別のバージョンを1762年には完成させることになる。

これは、オリジナル(ヴェジタル)のレシピを尊重しつつも、飲みやすさにかなり配慮したものとなり、彼はこの新星に「Liqueur de Sante(健康のリキュール)」という名を与えた。当初から緑色をしていたことから「Liqueur Verte」とも呼ばれている。これこそは現行の、ヴェールタイプの誕生である。

もはやエリクサーの名を冠さず、リキュールを名乗ったというのは極めて示唆に富む。時代は既にフランス革命前夜、ヴォルテールやルソーが啓蒙思想を華開かせ、ハイドンが交響曲、弦楽四重奏曲の父として活躍していた頃である。

酒界においては、ロシェ家がチェリー・リキュールをはじめとした各種リキュールを販売し、蘭からはキュラソーが仏に流れ込んで来ていた、「甘さは豊かさ、甘さは正義」の時代である。

そうしてシャルトリューズも貴族や上級世俗に迎合し、霊酒は美酒として生まれ変わり、渓谷を越えた遥か遠方まで、その美名を徐々に轟かせていくことになるのである。それが市民たちにまで、我々のすぐ近くまでたどり着くのはまだまだ先の物語であるが。

ここまでが霊酒シャルトリューズの「起」「承」の部分の歴史といっていい。
ここから「転」ずることになるのが、歴史の皮肉というものだ。

1789年、フランス革命勃発。近代史における極一大事は、当然のごとく、シャルトリューズ修道会にも襲い掛かる。

アンシャン=レジーム(旧制度)への市民の反抗は当然特権階級であった教会の一部を構成すると考えられたが故に、修道士は国外追放を命じられ、霊酒造りは一旦停止を余儀なくされる。修道士のいない修道院は廃墟と化し、あのレシピも革命派に押収されてしまった。

ナポレオン政府の薬務省はこのレシピを検閲したが、「読解不能、重要文書にあらず」と判断し、何とか消失を免れた。このようなところ、さすがのエピソードというか、まさしく神がかりとでも言ってしまおうか。

ナポレオンの百日天下も終わり、ウィーン体制下となる中、1815年、漸く修道士たちは追放令は解かれ、修道院の再建に着手し、レシピもラ・グランド・シャルトリューズ修道院に舞い戻り、エリクシルとリキュールの製造は再開、1832年のコレラ禍により西欧に影が落ちた時にはこれらの霊酒が忽ち役立つほどに、活気を取り戻すことが出来た。

そしてついに、1838年のこと、ジェローム・モーベックの意志を継承し、日夜リキュール造りに勤しんでいたブルーノ・ジャケ修道士により、黄金色に輝く「Liqueur Jaune」が開発されるに至る。

このマイルドでデリケートな味わいは次第に仏国内に広まり、ヴェールとともに「Reine des Liqueurs(リキュールの女王)」と称されるに相応しいいで立ちと立ち位置を手にする。

1840年ころにはヴェール、ジョーヌともに1ℓ入りのボトルで販売され、売れ行きは伸び続けたため、修道院は1860年に、8㎞ほど谷間を下ったFourvoirieにリキュール生産工場を建設、量産体制に乗り出した。

巴里では上流階級の間で愛飲家を生み、ディジェスティフとしてこれらのリキュールを飲むことが嗜みの一つとされ、ドーヴァー海峡を挟んだ帝国でも人気を博す。かのヴィクトリア女王(インド皇帝も兼ねた英国帝国主義全盛期の女帝として教科書にも載っていますね)も、ヴェール・ジョーヌ共に愛飲し、訪仏の際にはラ・グランド・シャルトリューズ修道院も訪れている。これは修道院が初めて女性に対して門戸を開いた、決定的な歴史的事象でもある。

そして、上記の引用『さかしま』が書かれたのもこのころだった。主人公のフロレッサス・デゼッサントはまさしく貴族の末裔で、自宅に人口庭園を築いていく、その理想的な絵画的生活の中に、シャルトリューズを加えているのである。

アブサンに勝るとも劣らない、文化的背景が、この美酒には常に纏わりついているのだ。そんなところがこの僕のエスプリを掴んで離さない。

「転」はまだ続いている。
20世紀にはいると、再びこの修道会に試練が到来する。

1903年に施行された宗教団体法によって修道士たちは忽ち国外追放、修道院は政府管轄下となってしまう。修道士たちはあのレシピを大事に抱え、スペインはタラゴナへと疎開した。修道士らが仏に帰国するまでの期間、ここタラゴナにてリキュールの製造は継続されることとなる。ラベル表記によれば、「Liqueur Peres Chartreux(シャルトリューズ会神父のリキュール)」となる。

こうして何とか難を逃れ修道士が西で勤しんでいる合間に、なんと本国フランスではスピリッツの商社グループが、ラ・グランド・シャルトリューズ請負会社を設立し、「シャルトリューズ」というブランド権を買い上げて、独自の製品を製造・販売してしまう。よって、タラゴナのシャルトリューズ・リキュールは「シャルトリューズ」の名を使えず、「Une Tarragone-Liqueur fabriquee par Peres Chartreux」とラベル変更を余儀なくされた。

けれども請負会社が製造した偽「シャルトリューズ」は本来のレシピの製法を当然踏まえておらず、名前負けすらする商品であるがゆえに全く売れず、1929年にはこの会社は破産してしまう。そうしてまたまた神の息吹が働いたのか、再びラ・グランド・シャルトリューズ修道院の手中にブランド権は戻ったのだった。

ここは少しややこしいのだが、1921年に宗教団体法が撤回された際、タラゴナの修道士の主要メンバーはフランスに帰国し、廃墟と化していたFourvoirieには戻らず、新たにマルセイユで「タラゴン」を生産するようになった(まだシャルトリューズのブランド権は帰ってきていないため、タラゴンと記す)。しかし、同時にタラゴナに残留した修道士もいて、彼らは現地で従業員を雇い、残された施設でそのままタラゴナ産の「タラゴン」の生産を続けたのだった。

とどのつまりは、1921年から、ブランド権が元に帰属するまでの1929年までの間、マルセイユ産「タラゴン」と、タラゴナ産「タラゴン」、そして仏の請負会社による名ばかりの偽「シャルトリューズ」と、三つ巴状態でシャルトリューズ・リキュールは製造されていたことになるのだ。

このあたり、イミテーションの登場等も含め、非常に知的好奇心擽られる歴史のドラマである。

1935年、廃墟のままであったFourvoirieの工場は地震による地滑りにより、二度と修繕することは不可能となってしまった。いつかはあの静謐な環境で工場を持ちたいと考えていた修道士たちは新天地を求め尽力することになる。そうして新たに1940年に開拓されたのが、ラ・グランド・シャルトリューズ修道院から24㎞離れたところにあるVoironである。

1941年には、タラゴナでの生産は停止され、Voironのみで稼働していくことになる。この工場こそが、今日までのシャルトリューズ・リキュールを製造している唯一の工場となっている((後日加筆)2018年、エギュノワールにて新たに蒸留所が建設された)。

1970年以降、このリキュールの梱包、出荷、販売、宣伝などの業務は、民間のSociete Chartreuse Diffusionに委託されているが、原料とする薬草の配合レシピは未だ2人の修道士のみの間で厳格に秘匿されている。

以上がシャルトリューズ・リキュールの全史だ。
僕はカトリックには改宗しようとは思わないが、シャルトリューズ・リキュールの、その霊緑の液体そのものへの、熱狂的な信者なのである。

そのままでももちろんおいしい。世紀末のブルジョワや貴族趣味的な気分に沈殿したい朧げで頽廃的な夜にはピッタリの寝酒だ。まさしくそんな夜は、リキュール・グラスに注がれた「おフランスの翠玉の栄光」と向き合い、対話している。けれども、アメリカナイズされ国際スタンダードとなった混ぜ物としての飲み物=カクテルを構成する一要素としてシャルトリューズを享楽するのもまた一興。トニック割やラスト・ワード、アラスカ、ビジュー、シャンゼリゼにサン・ジェルマン、シャムロック、イエローパロット、ザンシア。。。様々な国の産物と共鳴し合い混ざり合うことによって様々な顔を覗かせながらも、翠玉のような気高さと気品は失わない、そんなリキュールといっていいだろう。

【参考文献】
『リキュールの世界』福西英三、河出書房新社、2000年
⇨本稿の歴史的記述のほとんどはこちらの文献に依存している。僕らからすれば遠い時間を生き、インターネットが普及して間もないころに書かれたにも拘らずのこの情報量と、広範に及ぶ深い教養は、私淑に値する。

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