見出し画像

あり、あまる。


若い時は、なんでも足りなくて

年取ると、なんでも余してしまう。


最近は身近な親戚のおばちゃんらに

いろいろと助けが必要になってきている。


冒頭のようなことも感じた次第で

ここ数か月、諸々実感したのだった。


あらためて、こうなっていくんだなぁ

という認識を強く、強く感じてしまった。


ウチの母も含めて、彼女らが言うには、

(ミルクボーイみたいな言い回し、笑)

できていたことが、できなくなるのが

どうにもつらい、ということらしい。


ウチの母は自分が情けなくて、

許せないんだというが(笑)


単に筋力の衰えばかりではない。

気持ちも意識も前向き、でも手足を

動かしたいんだけど、動かせなくなる。

神経系統や骨のすり減りなども大きい。


活動量で筋力を補って維持することも

年齢を重ねるとかなりの気力、労力が要る。


ましてや、このコロナ禍で制限がかかり、

リズムの狂いがバランスをも狂わせる。


家の中に閉じこもっていれば?と

周囲は迷惑かけてくれるなと、思っている。


いや、違うよ。

その閉じ込め方、されてみ?

すんごいイヤな気持ちになるよ、きっと。


コロナの陽性者に対しても

通ずることですけどね。


自分の現在の立場と相手の立場を

考慮した配慮がちょっと足りない。

少し傲慢な人が増えてきた印象も。


認知症というと世間のイメージは

もうオカシなことを言うような、

いわゆる、ボケちゃった人扱いが多い。


周りにいる人間も、なんとなくだが

加齢によって追いつかなくなって生じるミスを

いわゆる「ボケ」と混同させてしまい

その感覚と不安が混じりあってしまう。


もしかしたら認知症?と、

とらえてしまいがちになる。


いわゆるその状態ではないけど

認知する能力は、それだけではない。


状態を把握しておくことや、

その把握している内容を記憶して

維持することも含まれている。


一概に「ボケ」とは言い難い。

これだとちょっとわかりづらいかな(笑)


もの忘れではないけど、

同じものを購入してたり、

売ってあるから買ってしまう。

みたいなこともあるでしょう?


これを認知症扱いしちゃダメですよね。

ついつい、そう見てしまうフシもあるが。


この現象はおそらく、年齢問わずに

あることだろうと思うんですよ。

把握することって「意識」しないと難しい。


そしてその把握状態を維持するのは、

「その気になって覚えていないと」難しい。


常々、アンテナ張って把握能力を

維持し続けることは意外に難しいですよね。


若いときは意識せずともできていたこと、

それが意識しないとできなくなっていく。


何か別の負荷がかかると

二つ以上のことを

同時に難なくこなすことも

加齢とともに難しくなっていく。


それも気づかないうちに少しずつ。


気づけば食べきれた量のおかずが、

食べきれなくなって冷蔵庫にたまる。


毎日おかずを作ろうとはするのだ。

しかしそんなに食べられないし、

暑いと体力も気力までも奪われてしまう。


すると若い頃のようにつくる気力が、

毎日やることも続かなくなってしまう。


いつしか、今日は、つくるのをやめてみた。

今日は疲れたからと、自分を許す。

もちろん許していけばどうなるかは

知っている、でも承知のうえで。


一度ラクだと感じると、ラクなほうに傾く。

気持ちがあるけど、ついていけなくなる。

バランスをとりながら、休み休みで。


がんばってつくるけど全部たべきれない。

結局同じ料理ばかりを続けて出せないし

同じ料理ばかり食べたくないから。


冷蔵庫がもう、パンパンやないかぁ(笑)

って状態が結果的に多くなってくる。


ウチの母は、そのことにガッカリしている。

ワタクシはそれは、ガッカリすることないと

慰めではなく、いつも言っている。


むかしは貧乏で食べられなくて、

欲しくても買えなかった時代を過ごし、

食べられる有り難さを感じた世代。


しかし、歳を取り、

年を追うごとに食べきれなくなり、

つくるけど食べきれない。


食べきらないうちに、買ってしまう。

旬のものをおいしいときにおいしく。

その気持ちもわかる。

食べ物はからだに入ればいっしょ、

というわけにはいかないから。


食材も無駄にしてしまうことも多い。

しかし、責めるに責められない気持ちもある。


つくらないただ食べるだけの人は、

食べきれる量を考えてつくればいいんだよ、

と軽口を叩いてしまう。


それがどんなに傷つけている発言か(笑)

つくらない彼らにはわからないから。

ちなみにワタクシは自分で苦にせず、

つくり、食べて、片付ける。


つくる立場に自分がならないと、

理解できない感覚かもしれない。


世の中の2人ぐらしの

家事を女性まかせにしてきた

典型的な昭和の老夫婦。


彼らは毎日、このわかりあえない

平行線をたどる不毛なやり取りを

続けているんですよね(笑)


食べられる量だけをつくり、

ムダを無くし、モッタイナイことをせず、

毎日料理をつくることの、しんどさ。


しかも文句ばかりで助けようにも

助けたことがないからできない男性。


体力、気力、経済力。あらゆるものが

続けられる、こなせられる時はまだいい。


しかし、徐々に日々完璧にこなしている、

そんな人でさえ、できなくなる日が訪れる。


どんなに健康補助食品を取り続け、

健康ビジネスのワナにかかり続けていても。

続けられる、ありあまる富があったとしても。



いろんなことに当てはめて考えると

なるほどなぁと思う冒頭の表現でもある。


若い時は、足りないから動く。

足りないけど、動かなきゃならない。

実力が足りない、努力が足りない、

実績が足りないなど・・・。


でも、動けるから動くんですよね。

動けなくなるという恐怖をまだ知らない。


から、こそ、けど。

何かにつけて、それでもやっぱり

足りないのだ。


意欲はありあまるのに、

うまくはいかないことも多い。

むしろうまくいかないことだらけ。


そういう人生をたどりながら、

年老いていくと今度は違う意味で、

あり、あまる。


若い時と違う意味のありあまるを

味わうことになっていく。

うまくできているというか、

なんというか(笑)


ムリ、ムダをなくす努力は

もちろん尊い、立派なことだ。


しかし、誰にでも求めていく社会は

ちょっと違う気がする。


出来ない人がいて、出来る人が支えて。

世代が変われば、その役割の立場を

変えていくことになる。


出来ない人に今度は自分が回っていくが、

出来ない人を「助けてこなかった人」に対しては、

意外と周囲は、冷たいのかもしれない。


恩を感じていないからか、あるいは

やってあげていた姿を見せていなかった、

からなのかもしれない。


やっぱり、大人はある程度、

お年寄りを支えて助ける慈悲の気持ちと

やさしい表情やその背中を

子どもや孫に、見せてあげるべきだと思う。

その機会をつくるべきだと思う。


老々介護で若い人には迷惑を

かけたくないという気持ちが強い昨今。

でも一歩踏み込んで、そこは違う。

大事な気持ちが分断されてしまう。


ワタクシは自分の親がその親である、

おじいちゃん、おばあちゃんを

支えて助ける姿をみてきたからこそ、

自分の親がそうなったら助けてあげたいと

心の底から思うようになったのだ。


もちろん面倒くさい感情もあったが、

年齢を重ねるごとにそのマイナスな感情も

薄れてきている(ゼロではないが、笑)。

義務とかそんなんじゃなくて、支えたい。


それは世代を超えてつないでいく

大事な感情、感覚だと思うんですよ。


専門家にお金を払って任せればいいと

いまはそうしてしまう人が多いかもしれない。


自分が食べていくのに精いっぱいで、

親の面倒「なんか」看切れないよとも言う。


でも助けてあげる心が素直に起動するかは

やっぱりその背中をみせてきたかどうか、

ではないだろうか。


みなさんはそんな親の背中をみてきただろうか。

そして子どもや孫にその姿、背中を見せて

あげているだろうか。


きっと、何かを感じてくれるはずだと思う。

あなたが感じ取れたのなら、その子にもきっと。


長いな(笑)、コンテスト応募用レベルだわ(笑)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?