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すれ違う男女の思惑

ユリは25歳の誕生日の夜に牧田からディナーの誘いを受けた。

牧田はユリが高校に入学した年からユリの祖父が経営するクリニックに精神科医として雇われていた。

牧田は既婚者ではあるがユリの祖父は医師として誰より牧田を信頼していたし、何よりユリは高校生の頃から牧田に憧れていたからディナーの誘いには喜んで応じた。

ユリは25歳になるまでの何人かの男性との交際経験において、セックスをしたことがなかったが、周りの友人たちにはそのことは伏せておいた。

20歳を超えて恋人がいるにも関わらずセックスをしたことがないという事実により、友人たちから好奇の目で見られ、あれこれ聞かれたくなかったし、説明もしたくなかった。
そもそもユリ自身、それを上手く説明することはできなかったが、牧田への憧れは少なからず影響していることをユリは自覚していた。

誕生日の夜にユリは牧田と神楽坂にあるイタリアンでディナーを楽しんだ。

牧田はコース料理に赤ワインを合わせ、ユリも牧田と同じワインを同じペースで味わった。
料理を味わいデザートを食べて、コーヒーを飲み終えるとユリは、誕生日の夜ぐらいは牧田に甘えてもいいだろうと思いきってバーで飲み直したいと言った。

牧田は自分からユリをバーに誘おうとしていたが、ユリに応じる流れで青山通りの裏路地にあるバーへと向かった。

タクシーの中でユリは初めて牧田とディナーを共にした喜びを感じ、牧田とバーカウンターにいる自分を想像して心地よい高揚感を感じていることを意識した。

そこはカウンターが8席だけの小さな音でクラシックが流れるバーだった。
カウンターの前で牧田がユリに左右いずれかの席を選ばせると、ユリは左側の席を選び牧田はその右隣に座った。

バーテンダーが近づくとユリは身体をわずかに牧田の方へ傾けて言った。

「わたしが飲むカクテルは牧田さんに決めて欲しいです」

ユリは自分が牧田に甘えていることを自覚して、それを許した。
牧田は赤ワインをアマレットと合わせ、ジンジャエールで割ったローザロッサというカクテルをユリのためにオーダーした。

牧田がクライヌリッシュのオンザ・ロックをオーダーすると、ユリは牧田のグラスから漏れるウイスキーの甘やかしい香りを隣で感じながらローザロッサに口を付けた。

「このカクテルとても美味しい。わたし、好きです」

ユリは牧田との距離をほんの少しだけ詰めて言った。牧田はユリが距離を詰めていることに気づいたがその距離を保っていた。

今日はこの辺りで留めておかなくては


牧田は自分にそう言い聞かせ、2杯目にラフロイグのペリエ割をオーダーするとユリも同じオーダーした。
「わたしもその、同じウイスキーをペリエで割って下さい」
ユリは「ペリエ」という未知の響きを自ら口にしたことに恥ずかしさを感じた。

バーテンダーは2人の前にグラスを並べ、ラフロイグのボトルを牧田とユリの間に置いた。

牧田とユリはイタリアンにいた時よりも会話は少なかったが、より親密な時間をゆっくりと楽しんでいた。
間に佇むラフロイグのボトルは2人のに成り行きを静観しているようだった。

その日ユリは酔っていることを自分に言い訳をした上で、帰りのタクシーの中で牧田の手にさりげなく、しかし着実に触れた。その感触が何を示唆するか掴めないまま牧田はユリを受け入れ、ユリの手を握り返した。
タクシーがユリの住むマンションに着くと、ユリは礼を言いタクシーを後にした。

その夜ユリはもう随分前から牧田に抱かれたかったことをはっきりと自覚した。
今まで誰にも抱かれてこなかったのは、牧田に抱かれるためだったことに気がつくとユリは嬉しさを感じながらも少しだけ泣いた。

次の週末の夜ユリはお礼がしたいと牧田をワインバーへ誘った。
「じゃ2軒目は僕が気になっているバーへ行こう」
お互いに口実を見つけながら2人は週末の夜を待ち望んだ。

その夜ワインバーでユリは陽気に酔っていたが、牧田の口数は少なく何かに悩んでいる様子だった。
察したユリは牧田のグラスにワインを注ぎながら言った。

「牧田さんが悩んでいること、わたしに話して欲しいです、もしわたしで良ければですが」

牧田はユリに注がれたワインを一口のみ、院内では誰にも話すことができない内容だと前置きをしてから、ユリの祖父の経営に対する厳しい指摘をした。

「院長の経営や論文は時代遅れで現代的ではない。精神科医の役割は、例に漏れず時代と共に移り変わっているが、院長はそれに順応することができていないし、そのことに気づいてさえいない」

牧田はそういうとグラスに残ったワインを飲み干し、新たにウイスキーをロックでオーダーした。

ユリは牧田の言うことの全てを理解することはできなかったが、およその文脈を把握し、牧田がユリにその思いを伝えたいという気持ちを理解した。

牧田は話し終えるとユリに詫びた。

「おじいさんのことを悪く言ってしまいすまなかった」
「大丈夫です、わたしに話してくれて嬉しかったですよ」

ユリの言葉に甘える程に弱くはなかった牧田はすぐに話題を変えたが、ユリは祖父に対しての考えを詳しく聞きたいと言い、牧田の目の奥を覗いた。

牧田は自分が気を許すことをユリが喜んでいることを知ると、ユリの中にある自分の存在に気づき、それを心地よいと感じた。

さらにその心地よさを手放したくないと感じた牧田は、前からユリを抱きたいという気持ちを抱いていたことに気づかされた。

牧田はユリを抱くことのリスクは、院長であるユリの祖父が多くの領域を占めていると考え、妻の存在を最初に考えなかった自分の心を攻めた。

結局自分が大事にしているのは、自分の立場であり妻ではないのか。

最後に妻を愛して抱いたことを牧田は思い出すことができなかったが、目の前にユリがいることに安心感を感じた。

牧田の定まらない視線と不自然な会話の流れを感じたユリは牧田に言った。

「牧田さん、わたし誕生日の夜に牧田さんと一緒に過ごせて嬉しかったし、もっと牧田さんの考えてることを知りたいです」

そう言うとユリは牧田に少しだけ近づき牧田と同じウイスキーをオーダーした。
牧田はユリの髪の香りが感じられるほど、ユリが近づいていたことに気づき鼓動が高まった。

ユリは、牧田の本音を聞いてからより親密に感じた牧田に抱かれることを想像した。
一旦それを想像するとユリは、牧田と深くつながりたいと強く欲した。

そしてその機会が多少のリスクを伴いながらも、今日の成り行き次第で訪れることをユリの本能は察知した。

牧田はユリのグラスに残されたウイスキーが自分のグラスよりも少なく、あとわずかであることに気がついた。

「次は水割かペリエ割にした方がいい」

牧田はユリに言った。

「わたしは、まだロックで飲めます。真司さんは次は水割にしましょうか」

ユリはその時に牧田を初めて名前で呼んだ。日頃名前で呼ばれることがない牧田は、ユリにその名を呼ばれると、自分が医者でなく1人の男であることを意識した。

ユリは牧田の視線が自分に留まる時間が少しずつ長くなっていることに気づき、牧田の抑制が解かれ始めことを知った。

それでも尚、牧田から一線を越えるきっかけを発信させることは、高いハードルであることを理解したユリは牧田の手に触れながら言った。

「ねぇ、真司さんがわたしを抱きたいと思ってること気づいてるし、今のわたしもそれを望んでます」
ユリはさらに牧田の気持ちを後押しするように付け加えた。
「でも明日のわたしが同じようにそれを望むかは分からないです」

理性的でリスクを避ける牧田がユリを抱くには感情だけでは足りず、自らを許す理由が必要だった。 

「真司さんは、誰かを傷つけたくないんじゃなくて、自分が悪者になりたくないんですね。このままじゃ、わたしだけが悪者になってしまいそうです」

ユリは牧田から離れて言った。

「せめてわたしを抱きたいと思っているかだけでも答えて欲しいです」

牧田は残りのウイスキーを一口で飲み干しユリを見て言った。

「そう、抱きたいと思ってしまっているし、その機会が今しかないならそれに抗うことはとても難しいとも思っている」

ユリは嬉しさを隠しながらもう1度牧田に近づいた。

「真司さん、前からわたしの気持ちに気づいてましたよね。真司さんとわたしは後戻りできるいくつかのポイントがありながらここまできてしまいました。
今、わたしが何より手にしたいと願っていたものが目の前に表れているのに、それを手にすることができないくらいならわたし」
「行こう」

牧田はユリの言葉をさえぎりユリの手をとった。

自らが悪者になることを覚悟した牧田はスマートにその後の成り行きを整えた。

タクシーの中で無言だったが2人は強く手を握り合っていた。

部屋に2人きりになると、ユリの心からは様々な思いが溢れかけたが、牧田に余計な感情を与えたくないと思い涙を自らに留めた。

自然な流れでベッドに横たわるとユリは牧田の首もとに唇を近づけた。

「もう何も考えなくていいですよ、牧田さんがしたいようにしてください」

ユリが言うと牧田はユリの手をとり抱き締めた。
ユリはそれに応じて、ブラウスの第二ボタンまで自ら外しその先を牧田に委ねた。
牧田がその唇を塞ごうとするとユリは言った。

「わたし、真司さんが初めてなんです」

牧田の唇は直前で行き先を見失い、ユリを抱き締めていた腕はその力を失った。体勢は維持されたまま、牧田の身体は動くことができなかった。

「わたし、どうしたらいいの」
ユリは自ら曖昧に唇を重ねて言った。

それでも動けなかった牧田の心の変化を感じ、その先が閉ざされたことを知るとユリの中に留められていた涙は牧田の首筋に流れ始めた。
「ねぇ、どうして」

牧田はごまかすようにユリを抱き締める力を増したが、ユリはその腕から離れ牧田に背を向けた。

小さく震えるユリの背中を牧田はただ静かに見ることしかできなかった。

ユリはいち早く夜が明けることを切望し、牧田は朝が来ることを何より怖れた。

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