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マリコと僕が失いたくないもの

知らない街の夕暮れどきのカフェでマリコと僕はお互いの今までのことと、これからのことを話していた。

「あのね、わたしには欲しいものはないけれど、失いたくないものがあるの」
マリコはそこで言葉を止めてブラックコーヒーをかき混ぜた。

僕はその続きを聞こうか、マリコが言い出すのを待とうかを考え、ミルクと砂糖が入ったコーヒーにもう1つ砂糖を入れて、かき混ぜた。

お互いに無言のまま目の前のコーヒーをかき混ぜる。僕は苦味と甘味の調和を図っているけれど、マリコはただ苦味を混ぜている。

僕が手を止めてコーヒーに口をつけるとマリコは席を立った。

「なんだか甘い物が食べたくなっちゃった。ここのカフェ、アイス売ってるから買ってくるね」

レジの前でアイスを選んでいるマリコを眺め、僕は冷めかけたコーヒーを飲みながら考えた。

マリコが失いたくないものとは何だろう

「ハーゲンダッツとスーパーカップ。あなたはどっちが食べたい」
マリコは嬉しそうにハーゲンダッツとスーパーカップを僕に見せた。両方ともバニラ味だ。

「マリコが食べたい方を選んで欲しい」
「わたしはあなたに選んで欲しいの」
マリコは僕の目の奥を覗き込んだ。

「スーパーカップが食べたい」
僕がそう言うとマリコは笑った。
「ふふふ、やっぱりね。じゃわたしはハーゲンダッツだね」

僕がスーパーカップを手にしようとするとマリコは言った。
「わたし、あなたがスーパーカップを選ぶこと、分かってたよ」

マリコはスーパーカップを取ろうとする僕の手を止めた。

「わたしはね、あなたがわたしにハーゲンダッツを食べてほしいって思ってくれたことが嬉しいの」
マリコに何を言えばいいのか分からなかった僕は、コーヒーカップを手にしたが既にコーヒーはなくなっていた。
僕は成りゆきで空になったコーヒーカップに口をつけた。

マリコは僕を見て笑ったけれど、空のコーヒーカップについては触れなかった。
「ねぇ、ハーゲンダッツ一緒に食べよう、もちろんスーパーカップもね」
僕が一口目にハーゲンダッツとスーパーカップのどちらを先に味わおうかを迷っていると、マリコは迷わずにハーゲンダッツを食べて笑った。

マリコが美味しそうに食べているのを見て、僕は結局ハーゲンダッツを食べることなく、スーパーカップを食べた。そして今更ながらコーヒーに砂糖を2つ入れたことを少しだけ後悔した。

小さな後悔を抱えた僕はマリコが失いたくないものに少しだけ触れた気がした。

アイスクリームを食べ、コーヒーを飲み終えるとマリコと僕はカフェを出て、近くの公園まで歩いた。

僕は隣を歩くマリコの影を追いながら、その手に触れたい気持ちを抑えた。掴めない影と触れることはできるけれど、触れることのない手。すぐ側にあるけれど手に入れることのできないそれは、欲しいものなのか、失いたくないものなのか。

マリコと僕は公園に着くと噴水の前にある椅子に座った。

西日がその姿を隠すと夜がはじまろうとしていた。
噴水は水の流れを沈め、静寂が鳴り響いた。
マリコの声だけが僕の耳に心地よく触れる。

「夜のはじまりが綺麗だね」

マリコは空を見ながら言った。

「月は見えないけれど夜は綺麗だ」

僕はマリコに応じて空を見上げた。

雲も月も星もない夜の公園はとても静かだった。その沈黙は雄弁に世界の美しさを語っていた。

「わたし、あなたのことが好きだよ。この先もずっと」
「僕もマリコのことが好きだよ。この先も、たぶん」
「たぶんってなに」

不満そうに僕を見るマリコの手に触れた。やっと触れることのできたその手からはマリコの温度が伝わってきた。
「マリコが抱いている感情と僕が抱いている感情は同じだと思う。それをどのように言葉にするのかがマリコと僕では少しだけ違うのかもしれない」
「ふふふ」
マリコは僕の言葉を聞いて、その手を握り返してきた。鼓動は高まり静かな夜に漏れてしまいそうだった。

「それを理屈っぽいって思う子もいるんだろうけど、わたしはそうは思わない。あなたは臆病だからより誠実に自分の思いを伝えようとしているんだね」
「マリコのそういうところは、たぶんではなく確かに好き」
夜がその暗さを増し公園に明かりが灯ると僕らは触れ合った。

僕はマリコを失いたくないと思っていたことに初めて気がついた。


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