見出し画像

分析美学者から見たポストモダニズム

こんにちは、ポストモダンおちょくる芸人です。

分析vs大陸のいがみ合いが三度の飯より好きなのですが、ラウトレッジ・美学コンパニオンに「ポストモダニズム(postmodernism)」の項目があったのでかんたんに紹介。

書いているのはDavid Novitzという南アフリカ出身の美学者。描写の哲学やフィクション論で注目すべき仕事をしていた人だが、がんで若くして亡くなっている。

後で述べる通り、そこまで情報量のある論文ではないですが、英語圏の哲学・美学において、フレンチ・セオリーやポストモダニズムがどう扱われているのか関心があったため、読んでみました。

以下レジュメ。


----------✂----------

1.ざっくりした歴史

■啓蒙思想と近代哲学(16〜17世紀)

王、教会、封建制、貴族制が支配する中世から、個人の理性が重視される近代へ。

数学や論理や実証を通して、誰でも世界について正しく知ることができる。かつては特権階級の専有であった合理性、知識、理解、道徳判断が民主化された。

■ポストモダニズム(20世紀後半)

「真理は(理性を通して)(誰にでも)到達可能である」という近代のイデオロギーに対し、批判的な哲学者が出てくる。デリダ、リオタール、ボードリヤール。

デリダは「言語は言語外世界(extra-linguistic world)の対象と結びついている」というのを否定し、「記号の戯れ(the play of signs)」に過ぎないとする。「現前の形而上学」および「ロゴス中心主義」への批判。

ニーチェは、われわれによって客観的な知識とされている諸信念が、単にそう受け入れられている想像(imagination)に過ぎないとする。人間は自らの関心に沿って真理を捏造している。

絶対的な理性、知識、道徳などはなく、いずれも相対的なものでしかない。


2.ポストモダニズムと芸術の哲学

■モダニズムvsポストモダニズム

モダニズムとポストモダニズムは芸術哲学に関して対立する。

①作品の解釈:モダニズムは、いかなる解釈であれ、正しいか間違っているかのいずれかであり、いずれの作品にも単一の正しい解釈があるのだとする。ポストモダニズムは、正しい解釈などないとする。

②芸術的価値:モダニズムによれば作品は内在的な形式的性質(intrinsic formal properties)を持つことで、真に良い(genuinely good)ものとなりうる。ポストモダニズムは、芸術の価値は歴史的文化的環境からもたらされた偶然的なものに過ぎないとする。モダニズムは、芸術と非芸術を区別するような性質があると想定するが、ポストモダニズムはこれを否定し、芸術も文化的社会的存在物であるとする。

③芸術作品の意義:モダニズムは、芸術作品をそれ自体として自律的なものとみなすため、鑑賞者への教育的機能(instructive functions)については過小評価する。ポストモダニズムは、芸術作品が人間の認知を形成する(shape)と考える。ローティがvocabulariesと呼び、クーンがparadigmsと呼んだようなものを構築する。

■分析美学

分析美学者には、モダニズム寄りの見解を持つ論者が多いが、個々の論点に関してはモダニズム的なイデオロギーを叩くことも少なくない。

「芸術は文脈独立に、それ自体として価値を持つ」とか「芸術を非芸術から区別するような形式的性質がある」とかは叩かれがち。


3.解釈と評価に関する議論

■デリダ

「作品には一定の定まった意味があり、唯一の正しい解釈がある」というのがモダニズムの想定。デリダやバルトに代表される、大陸哲学の脱構築的転回(the deconstructive turn)はこれを否定する。

記号は、現実世界の対象とかっちり結びついたものではなく、別の記号との戯れでしかない。よって、つねに別の解釈が可能であり、唯一の正解はない。一定の定まった意味があるように見えても、それは人為的・恣意的な取り決めでしかない。

■バルト

バルトによれば、文学作品の読者は作品から意味を引き出すだけでなく、能動的な読みによって「テクストの生産者」となる。読者が創造的読みによって新たな意味を付与することで、作品ははじめて完成される。

■マーゴリス

ジョセフ・マーゴリスも、作品に唯一の正しい解釈はないとする。作品解釈は正しいか間違っているか、という二者択一が強いられるような場面ではない。芸術作品は文化的に構築されており、ゆえにもともと不安定(unstable)である。

■ノーヴィッツによる反論:認知的相対主義はあかん

しかし、作品解釈に関するポストモダニズムは、相対主義なのでまずい。

というか、「文脈相対的に言うならば、やはり真偽が問える」というだけの話であって、真偽が問えないというのは言い過ぎ。

作品価値の知覚や判断が文脈依存であると述べる論者は、分析美学内にも少なくない。Walton 1970によれば、芸術的価値はカテゴリー相対的に判断されなければならない。

いずれにしても、解釈と評価に関するポストモダニズム的見解は疑わしい。


4.ポストモダン・アート

哲学的ポストモダニズム(philosophical postmodernism)とは別で、芸術的トレンドとしてのポストモダニズムがある。もちろん、両者は結びついている。

価値、自律、個人の達成、天才性を強調するモダニズム芸術。啓蒙主義のもとで、高尚な芸術は俗な日常性と区別されていた。ポストモダニズムはこのような芸術観を攻撃する。

ポストモダン・アートのはしりとして、デュシャンのダダイズム。レディメイドの日用品を用いることで、芸術と日常の境界を切り崩す。

----------✂----------


教科書なのであたりまえと言えばあたりまえなのだが、ポストモダニズム(およびモダニズム)の説明がずいぶん大雑把で心配になった。しかし、まぁ端的に言えばそんなもんだろうという気もする。ポストモダン・アートの説明でデュシャンしか出さないのはいくらなんでも不親切だと思うが。

読んでいてウケるのが、ポストモダニズムの説明にしばしば「〜でしかない(only ~)」という表現が出てくる点。これって、すごくポスモ的な言い回しだなと思う。露悪の系譜であり、啓蒙批判という啓蒙。ある種のサブカル主義としてポストモダニズムを要約するのは、いたって適切だなと再確認した。現実に対して斜に構え、ナイーヴさを小馬鹿にし、割り切って生きるのがクールだと思っているタイプのそれ。

生き方として、個人的にシンパシーを感じる部分がなくもないし、僕も批評なんぞを書くときは境界侵犯性がどうのこうの、みたいなことばづかいをする。しかし、学術的な議論をしようぜという場面でこの手の人が噛み付いてくると結構やっかいなわけです。その点、論点を絞ってマジレスしているノーヴィッツには好感がわく。相対主義を相対化する意味でウォルトンのカテゴリー論を引くのは面白いなと思った。つまるところ、ポストモダニズム的な議論と分析美学的な議論の相違点は、支持する立場(相対主義か素朴実在論か)にあるのではなく、スタンスなのだろう。論文中で述べられているように、反権威主義、文化相対主義、反意図主義といったポスモ的な立場を取る論者は分析美学内にもいる。

ラマルクによるロラン・バルトへのマジレスは何度読んでも痛快なのだが、この手の切り返しをされてポスモ陣営はどう反応するのか気になるところだ。「エクリチュールの力学を流産させていてけしからん」的なことを言いそうだな〜〜と予想するが、これ以上はただの揶揄になりそうなのでぼちぼちドロン。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?