近藤和敬『ドゥルーズとガタリの「哲学とは何か」を精読する 内在の哲学試論』

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2.4つのイデアの「共立可能性」

著者は、バディウの著作を頼りに、「プラトン的な思考様式」を採用するという。それは、善なら善一つのイデアではなく、真、善、美、エロスの四つのイデアの意味を構成し、それも同時ということであるが、それを相互に関連させて、それらを確立するということである。

この四つは、プラトンが「離在的存在」とした「イデア」であるが、この四つのイデアを共立可能性にするというのである。

何を言わんとしているのか、なんとなくわかるが、ただ、まだ全容がわかるというのではない。著者のこの本を追いながら、たぶん、ドゥルーズの考え方に、この著者の読みを通じて、迫ろうとしているのだくらいだ。

ロトマンやら数学的認識とイデアあり、そこらへんが、ピシッと俯瞰できない。ただ、この本を読み通す時間は、まだたっぷるある。 11/29/20(日)


1.「内在平面」を生きること

8/16/20日、に「序文」を読む。内在という考え方は、これまでおぼろげに理解していたものとそう違わないと思った。第1章の冒頭で、ドゥルーズ最晩年の「内在:ひとつの生」を引用しながら、「超越論的なもの」、これが「超越論的領野」と同じ意味に捉えらえていた。

まさに世界の内にあり、世界の部分でありながら、その世界の別の部分を理解する試みが、いかにして世界それ自体を理解することになりうるのか、という当初の関心に応えるものである。P17

著者は、分からない「これ」にこだわるが、「これ」は生きている前の「これ」だから、生きているうちに、「これ」を知ることができない。でも、生きているうちに、どうしても「これ」を知りたい。その時、著者が出会ったのが、「構成主義」というアプローチだったという。つまり、

模擬的な「これ」を、この「これ」のなかに作り出すことで、その模擬的な「これ」の裏側から「それ」の作動原理を理解すれば、ひるがえって、「それ」をつくっているところの「これ」の作動原理も、間接的に理解できるではないか。P12

さらに、この「超越論的なもの」、「超越論的領野」、「内在」、「これ」という考え方は、序文の末尾にあるスピノザの『エチカ』へのコメントを通じて、「内在平面」という概念が導きだされる。

『エチカ』の証明者は、その証明のなかにいったん入ってしまったなら二度と出ることのかなわないある「内在平面」を生きることになる。これこそ、<内在の哲学>が<内在の哲学>たる所以である。P574 

これ、あれを模擬的に、証明的に、捉えることは、現実的なものの前提となる潜在的なものを発生的に捉えていくことであろうか。これは國分功一朗氏が『ドルーズの哲学原理』で述べようとしたことである、と思うのだが。

最近、読み始めた森田裕之氏の『ドゥルーズ『差異と反復』を読む』における「経験的な行使」を超えた「超越的な行使」も同じようなことを言おうとしているのだと思うのだが。

あとは、近藤氏の「これ」は、檜垣立哉氏の『ドゥルーズ入門』(ちくま新書」の冒頭にあるランドサット衛星からみた地球の光景と似たような感じだと思ったのだが。というのも、この光景は、我々が日常経験する世界のイメージではないからだ(『ドゥルーズ入門』、P7)。

ここで、見えないもの、潜在的なもの、超越論的なもの、としておこう。その時に、檜垣氏は、それを経験に入ることでイメージ、原文はイマージュだが、よく分からないので、便宜上、イメージとしているが、「その流れは確かに感じとられているのである」(檜垣、P8)という、「感じとられている」、「感じ」である。

この「感じ」こそ、森田裕之氏の『ドゥルーズ『差異と反復』を読む』の超越的な行使を理解する上での、感じなのではあるまいか。私という自我に表れてこない潜在的なもの、したがって、それは経験的な行使がなされる所与ではない。所与ではない潜在的なものは、感官において先行的に存在するという。そして、これが「差異」であると(森田、P30 )。森田氏によれば、潜在的な差異は、感官が出会うことで感じ取られるものである。言い換えれば、「感官において差異が存在する」