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神様が「いい」と言うまで

 もっていないものを数えるのが得意だ。

 一方、夫はあるものに目を向けるのが得意だと思う。


 更新がしばらく空いてしまった。

 この間何が起こっていたかというと、入院一歩前の悪阻だった。そう、身籠ったのである。予想外の妊娠(だって排卵日狙ったわけじゃない)で、「結婚一周年を迎えるまでは、もう子どもはいらない」と夫婦で決めた矢先のことだった。

「もう」の意味はちゃんとあって、今年の二月末、はじめて子どもを授かった。別に妊活していたわけじゃなく、「年齢的にもそろそろ」なんてこともなく、ごく自然とそうなってしまった。検査薬の結果に夫婦で喜ぶなんてことはなく、二人の間にはただ戸惑いと先行きの不安が横たわっていた。

「子どもを欲しいと思ったことがない。しばらくは、夫婦二人きりがいい」

 と常々言っていた夫とはその後紆余曲折あったのだが、初めての悪阻、初めての入院でそれどころではなくなってしまった。

 三月二十五日、妊娠8週4日、飲食がままならない重症妊娠悪阻。

 出産予定の総合病院の周産期センターのベッドで、二十四時間点滴の日々。一本500mlの点滴を一日4本打ち、絶飲絶食。不思議だったのは、血管から栄養分が入っているのに、点滴の水分と、黄色くて酸っぱい胃液と、緑色の苦い胆汁、傷つけられた喉から鮮血を吐きまくったこと。点滴加療でも一向に良くならず、毎日生き地獄のようだった。体重は、マイナス7キロだった。

 だけどそれも、四月初旬、突然の稽留流産の診断と掻把手術で、症状はぴたりと終息を迎えた。

 悪阻を耐えた甲斐は、なかった。


 そして、今回の妊娠である。

 恐れていた悪阻は、妊娠5週で始まった。ひたすら食べやすいものを食べ、水分だけは多めに摂って、なんとか入院は免れたけれど、前回と同じか、それ以上に苦しいひと月だった。吐き悪阻に加え、匂い悪阻もあり、ベランダで煙草を吸う夫と同じ空間に居られない。それどころか、普段は感じない体臭までも敏感に嗅ぎ取り、同居は不可ということで実家に逃げ帰った。

 食べられたものは、最初は白粥、バナナ、フルーツゼリー。具なしの味噌汁やスープなんかも大丈夫だった。

 飲めたものは、レモンジュース(レモンを絞って、ガムシロップで甘ぁくして水で割る)、南アルプスの天然水(水道水は不味くてダメ)、トロピカーナのアップルジュース(メーカー指定)。

 週数が進み、7週になると一切食べ物を受け付けない。8週に突入すると、飲食しなくても胃液を吐き、一日二十回は便器を抱えてオエオエしていた。「これはもうダメかも」と、産院に駆け込み日帰りで500mlの点滴を打ってもらって、そこから回復してきた。今度は点滴が効いたが、主治医が「2本点滴する必要がでてきたら、また入院だね」と脅すほど、フラフラだった。体重は、マイナス9キロで、過去最低体重を更新した(わーい)。

 10週に突入しようとする今、悪阻の症状はだいぶ治まってきている。食後はムカムカすることもあるけれど、食べられることが増え動けるようになった。ご飯やおやつが美味しいと思える何でもない日常が、これほど素晴らしいものだったなんて、みんなもっと感謝すべきだよ。


 また今回もダメなんじゃないか、ダメになるんじゃないか、という不安は常にある。

 前回の流産の後、夫は、

「自然妊娠できる身体だと分かったこと、悪阻がめちゃくちゃ重いことがわかっただけでも収穫だった」

 と言った。

 私は、亡くなった赤ん坊のこと、こんな目に遭う自分が哀れなことばかりに囚われていた。


 入院した周産期センターのスタッフさんは、みんな優しかった。

 掻把手術後、退院前の最後の超音波検査を終えて病室に戻るとき、付き添ってくれていた看護師さん(助産師さん?)が、めちゃくちゃ勇気づけてきれたのを覚えている。

「たくさん悲しんだ後は、美味しいもの食べて、まずはお母さんが元気になって。それでまた、この周産期センターに、元気に戻ってくるのを待ってるよ。いつまでも待ってるよ」


 今度こそ、あの看護師さんに、元気な姿を見せたい。



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