読み終えるということ

本を読み終えることをなんと呼ぶか、なかなか悩ましい。本を読み終えるとはどういうことなんでしょう。

はじめに

 本を読み終えて感想をツイートする際、最後のページまで目を通したよという報告は同時にしておきたいわけです。しかし読み終えるということをどう表せばよいのかは難しいと思いました。最近の僕は「読了」という言葉を使いますが、それもいまいちしっくり来ません。なぜしっくりこないのか、しっくりくる代案はあるのかといったことを考えたので、書き残しておこうと思います。

※ここから長々と大里の話が続きます。「読了」の類義語が知りたいだけで大里には興味ないという方は類語辞典をひくか記事の最終章に飛ぶことをお勧めします。

「読み終えること」を僕はこう呼んできた

 僕の「読み終え宣言」遍歴を紹介します。小学生時代は「読破」でした。中学生時代、高校時代は確か「読み終え宣言」はほとんどしていません。それは読み終えるのに苦労しなかったから、読み終えることへの感慨や印象がなかったためです。読解力に比して簡単な本ばかり読んでたってことですね。

 大学生になってからは今と同じ「読了」になりました。まず、再び「読み終え宣言」をするようになったのは読み終えることが珍しくて印象に残るようになったためです。多少背伸びした本を読んでいる上にじっくりと味わうような読み方をしており、そうそう読み終わらなくなったということですね。再び「読破」をいう言葉を使わないのは気恥ずかしかったから。「読破」という言葉は名探偵コナンで見たのが初めてで、小学生の頃はかっこいいなと思って使っていたのですが思えば僕は「破」してないなと。読書は勝負ではないし、もし勝負なら僕は著者に完敗です。じゃあどうするということで、読み終えることを「読破」よりは無機質に表してくれる「読了」にしようと思い、今に至ります。

「読了」ではだめなのか

そうしてたどり着いた「読了」の何が僕は不満なのか。本を一周読み終えたとして僕は「了」してないなと思うのです。読了というとその本をすっかり終えた、理解したという印象になります。しかし本を一度読み終えることはその本との長い長い付き合いの、始まりのほんの少しに過ぎません。「読み終え宣言」をしたくなるほど読むことに労力を使った、言い換えればそれほどに愛した本です。読み終わってはい終わりなんてことはありません。

読み終えてからのその本との付き合いは山ほどあります。友達や家族に感想を語る。ツイートや報告書など自分がものを書く機会には幾度も引用する。読み直して誤読に気づく。誰かに薦める。日常の一コマにその本の陰を見る。本棚に置いて愛でる。著者と再会してその本を思い出す。そしていずれ、その本に現れている思想を乗り越える。忘れたころに本を見つけて、また別の読み方を発見する。このような本との交流、著者との交流が待っているんです。本は読んでいる間だけ価値をもつのではなくて、僕の世界を変えて僕の人生にわたって価値をもち続けるのです。

それなのに「読了」なんて言ってしまうのは寂しいし、いかにも事実に反しています。その本との触れ合いのより大きな部分、より豊かな部分はむしろ最後まで目を通して本棚にしまった後に始まるんですから。

結局なんと呼ぼうか。暫定的な答えは......

 ウェブの類語辞典で検索することを繰り返した結果、「読み終えること」にあてはまる意味をもつ二字熟語には以下のものがありました。

 読破、読了、卒読、読過、通読、完読

 「読破」「読了」については前述の通りですね。「卒読」はざっと読んだというような印象が加わります。「読過」は読み過ごしという第二義もあり、注意が足りないという印象も与えます。「通読」は読み通すことです。一周しただけですよ、という含みもあるようです。「完読」はあまり聞きませんが完全に読み終えるという意味合いみたいですね。

 以上を踏まえて僕が今後どういう言葉遣いをするかということですが、「読過」か「通読」あたりで考えています。その他の言葉はあまり僕の読書観になじまないように思います。「卒」の字も終えるという意味ですし、「完」の字はそれこそ味わい尽くしたんだという感じがしていやです。「過」の字は終えるというよりも一度すれ違うという感じで、また会えそうな感じがしていいですね。

 「通読」でいいかなあとも思うんですが、今の僕の精度では「読過」かもしれません。うーん。

参考文献

 言うほど参考にしていませんが、似たようなウェブ記事があったのでURLを張っておきます。短いです。




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