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僧侶とのディスカッション「人生とは何か」

ベトナム縦断したり南米に1年間居住したりして、今はタイのお寺で修業中のひろみです。


今日の朝からバンコク入りし、2週間ぶりの”普通”な生活をしている。

お寺にいた時は早寝早起、1日1食、瞑想、掃除とそこそこストイックな生活をしていたが、どうやら2週間にわたるその生活の積み重ねは一瞬で崩れ去った。

バンコクに着いた瞬間に日本食を食べ、昼にはヌードルを食べ、夜はないとマーケットでタイ料理をビュッフェかの様に食した。
おかげで今はお腹がパンパンで苦しい。

お寺ではタンブンでいただいた食べ物しか食べれないが、バンコクではいつでも食べ物を買いに行けるので、ついつい食べ過ぎてしまう。

自分が生活する環境は大事だと身に染みて感じる。


僧侶とのディスカッション「人生とは何か?」

昨日ドミトリーのオーナーと色々な話をしていて、ふと最近僧侶になったタムと1度少しヒートアップしたディスカッションをしたことを思い出した。

ちなみにタム君はとてもまじめで日々修行に真摯に取り組んでいる。

近年は強制的に一時出家する若者が多い中で、彼は自分から僧侶になると決めたのだから、学ぶ意欲も他とは段違いだろう。

人生とは何か?

タムは話し好きで、一緒にいると、最近学んだ仏陀の有名なストーリーや仏陀の教えを丁寧に教えてくれる。


先日も彼と話をしているときに、何かの流れで各々の人生の捉え方の話になった。

タムと僕の意見は分かりやすいくらいに真逆で

  • タムは人生は苦痛に満ち溢れている。

  • 僕は人生はとても楽しいものである

というものだった。


タムの意見の背景には仏教の教えがある。
上座部仏教は、人生(前世、来世含む)は苦痛であると捉え、修行を重ねることによる輪廻転生からの解脱を目指す。

生きている間でも、失敗したら悲しくなったり誰かが死んだら辛くなったりするし、かといって死んだ後救われるかというとそういうわけでもなく、次の人生がアリとして生まれたら最悪だ。

普段はこういった意見の違いがあったとしても僕はそれに対して何か言ったりはしないのだが、以前から仏教の人生の捉え方には疑問があり、ついいろいろと聞いてしまった。


タムはタムで仏教に傾倒しているので意見は変わらないし、僕は今までの人生を通して人生が辛いと思っていたらここまで来れていない確信があるので絶対に納得できないしで、議論は最後まで平行線だった。


信じ切る

ここで書きたいのはタムと僕の意見のどっちが正しいかということではなく、自分の意見と真反対の意見があったとしてもそれを信じ切れるかどうかということだ。

少し話がずれるが先日、スピリチュアルの概念を量子力学の視点から書いている本があり、その中に「感性の世界はその人の内面を大きく反映し、サイキックパワーが使えるかどうかは、それが絶対にできると信じ切れるかどうかに依存する」と言うものがあった。

量子の世界では人間の意識が介入するだけで変化が起き、つまりは意識が向いているものは現実化する。
だが、それは信じ切るという条件付きで。


タムと僕の意見は真反対でその意見を支える信条、世界観も全く違う。

タムは輪廻転生は信じているが、僕は信じていない。

従って先ほどの本の内容からすると、彼は死後輪廻転生からの解脱を果たすだろうし、僕は僕で僕が信じている死後の世界に行くのだと思う。

正しい間違いを決めることに意味がないのは言うまでもないが、自分が何を信じているか、そしてそれを信じ切れるかどうかということには大きな意味があると感じた一場面だった。

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