〈エッセイ〉天幕による演劇空間と言葉の場面造形力
芝居(劇団カナリ『赤い部屋』12月15日、玉川学園3丁目子ども広場)を見た。広場に天幕を敷設して演じるという趣向であった。建築学科の学生の卒業研究の一環とのことであった。芝居小屋の天幕は開放的であった。というより、天幕の内部と外部の境界はあってなきがごときで、私自身、天幕自体からはかなり離れたところから、立ったままで芝居を見たのであった。最後の場面以外、俳優は1人だけであった。この1人の俳優による独白を中心に芝居は進行した。
俳優の語る言葉が場面を造形した。つまり、敷設の天幕の中に幻視の赤い部屋が造形された、ということになる。芝居の流れの中で場面が変わる。すると今度は、たとえば自動車事故の起きた夜中の街角が現れ、あるいは海に臨む断崖絶壁が現れる。芝居の中で赤い部屋は実在する。しかし、交通事故や断崖絶壁は虚構であったと後に明かされる。つまり、俳優の演じる男の言葉が赤い部屋という空間の中に虚構の場面を造形していたのである。もちろん、その一方で赤い部屋自体が芝居の観客たちにとってみれば虚構であったのだから、現実にあるのは敷設の天幕だけであり、そこに幻視の赤い部屋という虚構の空間が現れ、すでに虚構であるその赤い部屋の中に、さらに虚構の場面が、つまり二重に虚構の空間が造形されたのである。敷設の天幕に虚構の場面が重層化するという現象を、私たち観客は目の当たりにしたのである。
私たち観客の見たものは物理的には天幕と俳優とに過ぎないのだが、言葉が発せられることによって、虚構の空間を私たちは幻視する。それは言葉が虚構の空間を幻視させるということになるが、全ての言葉がそのような機能を持つわけではなく、場面造形力を持つ特別な言葉があると考えるべきだと私は考えている。もちろん、どんな言葉でもイメージや概念を喚起しないものはないのだが、場面そのものを造形する言葉は特殊である。場面を観客の心の中に想起させる必要のある現場で用いられる言葉の特殊な機能だと考えたい。
さて、そのような言葉が発せられる時、敷設の舞台はどのような意味を持つのだろう。天幕が外界との間に強力な境界線を引くならば、天幕の中が即ち異世界と位置づけられよう。しかし、今回私が見た芝居の場合、天幕の内部と外部の境界線は曖昧であった。芝居の世界は天幕から溢れ出し、膨張していった。俳優の演じた男が広場の外まで歩いて行って、それで芝居はおしまいになり、膨張しきった芝居の空間は破裂して収縮した。さて、敷設の天幕の役割は何だったのだろう。天幕が異世界を形成したとは言えない気がする。むしろ言葉が場面を造形したと言うべきで、だとしたら天幕である必要はどこにあったのだろうか。たとえば4本の柱を立てて結界を作り、舞台に見立てれば、それで済んだかもしれない。
日本に原初的な古代演劇が仮にあったとしたら、舞台は屋外だったであろうが、そこが演劇の行われる場所であることはどのような形で示されていたのだろうか。『赤い部屋』の芝居を見たことで、そんなことを考える時間を持つことができた。