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自分を愛せるレトロなギャルになりたい

前の記事で書いたことの続き。

演技っていうのとはまた違うのかもしれないけど、最近、カメラのフィルターに関しても似たような感情が湧く。

女子は写真で自分たちを盛る。あれは完全な嘘だ。プロフ可愛くても会ったら全然違う人なんでしょ。俺、そもそも女の人と合わないから分かんないけど……

顎をシャープに、目元を華やかに。自分をより良くしているようで、その実、編集の手を加えれば加えるほど自分ではない架空の存在に近づけていることに他ならない。AVもパッケージと中身の人をそろそろ一致させてほしい。あれホントは別人なんだよね?

どかどか自分を盛っていくのは現実の自分を否定してることでもあると思う。それができるのは気持ちが強いのかな、たぶん。俺はあんなにも堂々ともはや別人となった顔を自分として外に売り出せない。
もしかしたら、盛れてる人たちは自分を愛せるからこそ、盛れてる自分や盛ってる自分のことも許し愛せてるかもしれない。

もしそうだとしたら、それはすごいことだし、ちょっと羨ましくも感じる。自分を愛せるからこそできることがあるのだ。逆は真とは限らない。
でも数学的にいうなら対偶は真だ。
できないことがある時、人は自分を愛せなくなるのかもしれない。できる人を横目に自分は上手くできず、なんなら挑戦すらできずに踏みとどまっている自分を発見しては失望する。
まぁ、流石に写真が盛れなくて自分に失望したことはないが………ギャルじゃなくて良かった…

また、最近だとレトロフィルターにも考えさせられる。

レトロでフィルムカメラのような写真は淡く、また適度な荒さも汚いものが溶けていくような感じがして美しいと思う。自分でもよく使うし気に入ってもいる。

それでも、それも演技、または嘘の類いに感じる瞬間がある。レトロというのは前時代のものという意味で使われているのだろが、現代ではそれに比べて技術的に鮮明に撮れるようになっている。
そんな時代にあえてレトロで撮ることの意義はなんなのだろうか。自分はそれを胸張って主張できるのだろうかと思ってしまう。

高画質で撮るとその人の技量もはっきり表出する。自分は結局、小手先で淡くてエッモーーいものを作る方に逃げているんじゃないか。写真フォルダのエモエモ写真を見返すとそんなことが頭によぎる。

結局、自意識。誰も自分のことは見ていないのは知ってるのに自分が自分を監視してしまっているのだと思う。愛の裏返し?自分メンヘラすぎでは?1人でメンヘラになり、1人でメンヘラはもう懲り懲りだーって言ってる。茶番すぎる。

演技も嘘も良いことなんじゃないか。

他人を害するならまだしも、前回と今回で触れた例は全部自分が自分を許せてないだけなような気がする。

自己肯定さえできれば。
そんな時はお酒の力を借りたいが、自分の酔っ払い方はそんなに都合よいものではない。
全部がどうでもよくなって、自分に対する主観とか客観とかが溶けてしまう。自分を許せるとか許せないとかではなく、自分に意識がむかなくなる。

酒は頼りにならない。
頼りになりそうなのはみちょぱ、ゆきぽよ、にこるんとかかな。今度、お茶にでも誘って女子会しながら自己肯定の秘訣とか聞き出しちゃおー。

時代は飲みニケーションからお茶ニケーションになってるからね。

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