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そのアイデアに、大義はあるか?

なんてことない雑記です。さいきん、友人、同僚とコロナ周りで何かできないか、と話す機会があった。そういう意思を持てる人がいることは本当に素晴らしい。いっぽうでアクションを起こそうとする人、起こす人以外が素晴らしくないかと言うとそんなこともない。毎日手洗いうがいをして、予防に努めている人も、同じくらい素晴らしいとぼくはおもっている。

それで言うと、サクちゃんさんのこのnoteは秀逸だった。最近じゃ誰もが「夢をもて」だなんて言われるけど、世の中持てる人ばかりじゃなくて、夢を持てない人だっているんだ。それはだめとかそういう話じゃなくて、そういう人は「叶え組」のほうなんだ、という視点には膝を打った。

はてさて、コロナの現状に対して私達でも何かできないか?と思う人が増えてきて、そういう取り組みを応援していきたいなと思いつつ、一方で、ちょっと気をつけないといけないなとも思うことがある。

たとえばあなたが身近な人と一緒にアクションを取ろうとすることは素晴らしいし、すぐやるべきだ。個人はいい。ガンガンやるべき。

でも一方で、社会全体に何かアクションをしかけようとするときは、少し考えたほうがいいことがある。ちゃんとその取組みに大義があるのか?を考えないといけない。というか考えるといいかもしれない。

大義とかくと、なんだか暑苦しいけれど、要は「なんでそれやるの?」「やんなくてもいいのになんでやるの?」「それって自分たちのためなんじゃないの?」という声に対して答えられるといいという話で。もちろん自己満足でもいいんだけど、そこにWhyがちゃんとくっつくと、もっと多くの人に共感してもらえるし、多くの人を巻き込める素敵な取り組みになるんじゃないかと思う。

僕の愛読書の1つに、「発想の技術」という本がある。詳しくは以下のnoteにまとめたので、興味がある人は読んでほしい。

書籍内で「そもそも」を考えてみろ、という一節がある。それは何かをたちあげる際にも同様である。

なぜ、その取組をする必要があるのか?
そもそも、その取組は本当に必要なのか?
1年後から振り返って、それにどんな意味があるのか?
手間暇をかけてまで、やる意味があるのか?
それは誰のためにやるのか?
あなたがやらなくてはいけないのか?
それは、私達のことを知らない誰かにとって、どんな意味があるのか?

といった、ちょっと面倒くさいことを考えるといいらしい。そうすると、自分たちのチャレンジに強度がますし、いざというときにぶれない。強い大義は、困ったときにあなたを救ってくれるはず。

ただいっぽうで頑固とは違うので、大義が違いすぎたな、とか。ガチガチすぎるなと思ったら、その都度柔軟に変えられるしなやかさも大事だと思う。


大義と実験マインドのバランスをとる

とまあ、大義を整える大事さを説いた一方でそんなことを考えているといつまで経ってもアクションできないという問題も感じている。

だから、すごく矛盾していることを言うと、思いついたらとっとと始めちゃうのがいいと思う。思いついたら、とりあえずやってみよう。やりながら大義を固めてみたり、困ったときにさっきのような問いかけを自分にしてみるのがいいのかもしれない。

朝井リョウの傑作小説「何者」にて、あるキャラが自分で何も作りもせずにただ批評垂れていて、それに対して「頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな」と主人公が言い放つシーンがあるけれど、思いはかたちにしてみないと結局何も始まらないというわけです。

その意味で、デザイン・シンキングの「プロトタイピング」という考え方や、光本勇介さんの「実験思考」という考え方は見習うところがあると思う。

遠野さんのEXOGRAPHはその意味ですごく応援していた。実験的でありながら社会に問を提示する素晴らしいプロジェクトだった。


とまあ、こんな感じです。なんだかすごく偉そうになっちゃったけど、ぼくも結局論じてばっかりじゃなくて、形にしないとですね!というわけでまた!

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