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マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(1) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

くまざわ書店ペリエ千葉本店 磯前大地(いそまえ・だいち)
 現実変革の可能性ゆえ、政治的な党派性との混同のなか、「思想そのものの可能性」が考察されにくくなったマルクスの思想。
 その最大の原因の一つとして、マルクスの同伴者であったエンゲルスの思想との混同が指摘される。エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』は権力が“いつ”成立したかを科学的に考察する名著で、日本でも天皇制の起源を相対化するための方法論として大きな影響を与えた。一方、マルクスは、価値や権力が“どのように”発生するかという思弁的な分析を主とした。日本でもソ連と同様に、「マルクス=エンゲルス」の思想として両者が一体となって受容されるなかで、両者の思考法の違いが見失われてしまった。
 違いを明らかにすることで、冷戦下で政治化された「マルクス主義」に陥る前の、マルクスの可能性も見えてくるはずだ。読書案内として、マルクス『資本論 第一巻』とエンゲルス『家族』を、日本での受容の様子を知るための貴重な証言として渡部義通『思想と学問の自伝』を紹介しておく。

ジュンク堂書店池袋本店人文書担当 井手ゆみこ(いで・ゆみこ)
 書店の哲学書売場にいっても、その一角が何か異彩を放っているような気がする、マルクスの存在。かつての社会主義崩壊のイメージによりひと昔前に終わった歴史だというイメージが強いです。必読の古典であることはわかっていても、大月書店の赤い国民文庫のズラーッと並んだシリーズなどを見てしまうと、これから何十年経っても、果たしてこれを読む機会が自分に訪れたりすることはあるのかな…などとつい思ってしまいます。でも、経済学はもちろん、哲学、歴史などの本を読むとマルクスについての知識が欠かせないことをいつも痛感させられるのです。資本主義の問題にこれからますます苦しめられていくのであろう現代においては特に。
 そう思い恐る恐る入門書などを読んでみると出て来るのは社会主義の独裁、支配的といったイメージではなく、マルクスの目の前の現状を変えようとする自由な姿勢、自らの思想を頭の中で終わらせない強い実行力、といった瑞々しい姿が見えてきたりします。多くの人が資本主義の次の一手を考えている今の時代にマルクスを読むことは、その思想だけでなく彼の辿った人生そのものが大きな助けになるのだと思います。生誕200年、おめでとうございます!

大分大学経済学部准教授 江原 慶(えはら・けい)
 学問は、これまでの知の積み重ねの上に成り立つ。私たちの社会は気が滅入るほど色んな問題を抱えていて、それに逐一対応するかのように様々な「学」が乱立しているが、それでは学問にならない。そういう場当たり的な「学」による解決は、他で必ず別の問題を生む。
 私はマルクスが全てを解決しているとは思わないし、むしろ今の問題の多くはマルクスを読んでいるだけでは見えてこないと思っている。しかしつい数十年前まで、人々はこぞってマルクスの著作を読んで、当時の諸問題を解決しようと、あの手この手を練ってきた。今の問題に着手するにあたって、成功例も失敗例も含めて、こうした過去の実績を利用しない手はない。ただ、それを読んで理解するには、彼らが読んだマルクスを知らねばならない。マルクスは、先人の知恵にアクセスするためのいわば共通言語になっている。
正直マルクスの著作を読むのはしんどい。ましてやそれについて何か書こうものなら、四方八方から矢とか槍とかが飛んでくる恐怖がある。私も触れずに済むならそうしたいが、イヤでも読まざるを得ない……。

法政大学名誉教授 大谷禎之介(おおたに・ていのすけ)
 マルクスが『資本論』で解明したのが「資本主義社会」の仕組みと運動だったこと,そしていまの社会が「資本主義社会」であること,このことを認めるなら,『資本論』が「現代社会(modern society)」についての書だということになるはずである。ところがマルクスを知っていると称する多くの論者がこのことを認めない。いまの「資本主義社会」は『資本論』が対象とした「資本主義社会」とは同じものではなくなっているのだから,と言うのである。本当にそうなのだろうか。この疑問をもちつづけて『資本論』を読みとおすなら,マルクスがそこで「現代社会」と呼んだ「資本主義社会」がまさにわれわれの「現代社会」そのものであることがはっきりと見えるはずである。どんなに変容した姿を見せるようになろうとも,「現代社会」が「資本主義社会」であり続けるかぎり,「社会的生産有機体」としてのそれの質は変わりようがないからである。ここにマルクスを読む意味がある。

思想史家 熊野純彦(くまの・すみひこ)
「マルクスが読まれなくなるとき、なにが終焉するのか?」
 たとえば、プラトンとアリストテレスが読まれなくなったとき、哲学といういとなみは終焉するだろう。同時にまた、この世界のなりたちを見なおし、世界を語りだすことばを織りかえして、世界のうちで紡ぎあげられてゆく生のかたちを吟味するこころみが終わりを告げることになるはずである。
 マルクスが読まれなくなったとき、いったいなにが終わることになるだろうか。ひとが現在それを「経済学」と考えている領域は、おそらくそれでも継続してゆくことだろう。マルクスが読まれなくなったとき、終焉するのは、経済学ではなく「経済学批判」であるはずだ。同時にまた、「経済批判」、資本制経済に対する、歴史的・総体的批判であることだろう。資本制がなお継続し、資本と国家が地上を支配しつづけるかぎり、それはつまり生を支配しているものに対する根底的な批判が死滅することにひとしい。
 失われるものはかくて国家と資本の外部を夢みる能力であり、べつのかたちで紡がれる生を構想する力のすべてである。この喪失が生の意味そのものの空洞化とひとしいと考える者はすでに少数者となっているのだろうか。そうであるにしても、あるいはそうであるがゆえに、マルクスはなお読まれなければならない。

よはく舎編集者 小林えみ(こばやし・えみ)
 30歳を過ぎて大学の経済学部に入り、まず需要曲線と供給曲線を習った。これで価格が決まるという。これは無理がないかなあ、と思っていたところで、マルクスに出会った。あ、こっちなんじゃないかな。私は「マルクス」というひとつの理論に出会って面白いと思っただけだった。しかし、その後、マルクスの本を手掛けると「政治の本は関わらないので」とデザイナーさんに断られる、「小林さんはマルクス主義者?」と聞かれるなど、「マルクス」が日本の世間でどうみられているのかを改めて実感した。私は編集者で、本にしてみたい興味ある分野が色々ある。その一つがマルクスであるだけなのに。なんて偉大になりすぎてしまったマルクス!
 無理やり理論と政治を切り離す必要はないし、そのうえで感想は人それぞれ違うだろう。でも読まないでレッテル貼りをする前に、誰かの、あなたの、読む本の1冊にマルクスが入っていることが自然なことであってほしい。その読書体験は賛同であれ批判であれ無駄にはならない、魅力的なものであることは確かだ。

NPO法人POSSE代表 今野晴貴(こんの・はるき)
 今、日本では労働・貧困問題の広がりがとどまることを知らない。2000年代後半には爆発的な非正規雇用の広がりと、貧困者の増大が「派遣村」事件や政権交代をも引き起こした。2010年代以後は、問題が正社員にまで拡大し、「ブラック企業」や過労死問題が社会を揺るがしている。 かつて、労働問題や貧困は、経済成長と共に改善すると言われ、資本主義の構造的な矛盾を指摘したマルクスの予言は外れた、などと言われてきた。しかし、今日、私たちが目の当たりにしているのは『資本論』に示されている、資本主義の矛盾そのものである。 機械や技術の進歩がもたらしたのはユートピアではなく、膨大な失業者と労働者の競争状態であった。リーマンショックに見られるように、資本蓄積の中で彼らは吸収され、排出され、ますます生存の余地が狭められている。労働者の尊厳は貶められ、介護・保育などのサービス受益者はないがしろにされている。 今こそ、私たちは私たちが生きる時代の社会構造に向き合うべきだろう。

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