東京下町に住む今は亡きおじいちゃんの話し
おじいちゃんの朝は早い。
朝の5時頃ドタドタドタ…と豪快な駆け足で、急勾配の木造の階段を降りてきて
さっと朝ごはんを食べる。
食べるのは昨日の晩ご飯の残りと、ラッキョウなどだった。なぜかおじいちゃんは、ラッキョウが好きでよく食べていた。ひとしきりご飯を食べ終わると、軽く乾布摩擦をしてまたラジヲをつけながら、ひと眠りするのだ。
そこは東京の品川
遡ること20年前、
中学生になったわたしは3年ぶりの夏休みを使っておじいちゃん達の住む東京・品川へと遊びに来ていた。
国道を一本なかにはいり、路地裏に出ると
そこは東京でありながら昔の下町の風情を残した街並みが広がっていた。
交差する道の角側に立っていたおじいちゃんの家はまさにそんな路地裏のど真ん中に存在していた。
いまはもう解体されてなくなったあの家。
何十匹と鈴虫を飼っていた為か、リーンリーンリーンとよく鈴虫たちのその羽音を鳴らす音が聴こえた。
ひと眠りをし、7時頃に床上げをしたおじいちゃんはあちこちにある虫の住むケースに
ブスっブスっと割り箸をつけたきゅうりや茄子を入れていく。
どうやら鈴虫たちは夏野菜が好物らしい。
餌をやるときのおじいちゃんは肌着とステテコ姿で胡座をかき
「いまぁ、ご飯をやるからなぁ〜」と嬉しそうに野菜をケースのなかへと入れていくのであった。それが夏のいつもの光景だった。
尋常小学校を卒業してすぐ、でっち奉公へと東京に出てきたおじいちゃんは勿体ない性だった。石鹸も、洗剤もお菓子も少しでもまだ使える食べられると思ったものは捨てられない性格だった。
本当はでっち奉公に出なくても良かったのかもしれないが、おじいちゃんの父親…つまりわたしのひいおじいちゃんが家のお金をし塊、道楽に費やしてしまった為働かざる終えなくなったと言っていた。
若いころ修行をしたお店で、苦労をしてきたおじいちゃんは少しでも節約してものを使いたいと思う人だった。そうして大事にするあまりにたまに食べものを腐らせることもあったけれど、うちの人はそのことについては何も触れなかった。
おじいちゃんのガハハと笑う豪快な姿がとても好きだった。肌着とステテコ一丁で、肩に荷物を乗せコンビニまで手続きに行ってしまうところも好きだった。
家の人は「ちゃんと服を着て」と願っていたが子どもながらにわたしはその立ち居振る舞いが江戸っ子みたいで好きだった。
そんなおじいちゃんは、7年ほど前に亡くなった。脳梗塞からの多臓器不全だった。
おじいちゃんは80歳を過ぎてもなお、
働くことが大好きでシルバー人材を使って働いていた。
おばあちゃんが旅行を勧めても
「誰かのために身体を動かしてるほうがええ」と自転車に乗って働き続けていた。
ひとのために何かをしたいと願い続けるひとだった。
異変があったのは、その通勤途中で転ぶようになった頃からだった。
おばあちゃんが
「危ないから、もう自転車はやめて」と止めても「大丈夫、だいじょうぶ」と自転車に乗り続けた。
そんなおじいちゃんが倒れたと電話があったのはもう随分と前の夜のことだった。
おじいちゃんが倒れた原因は脳梗塞だった。
あの豪快で元気なおじいちゃんがまさか?!
しかしそれは嘘ではなかった。
お見舞いに行ったおじいちゃんは、元気だったころとは比べものにならないくらい小さくなり覇気がなかった。
それどころか左半身と言語に、
重い後遺症が遺ってしまったおじいちゃんは、生きる意味を失ってしまった。
誰かと話すときも、自分の言葉が通じないもどかしさ
身体を動かすのもやっとで億劫になるらしく、
あの溌剌として元気だったおじいちゃんの姿はもうどこにもなかった。
そのうえ口を動かさないこともあってか、
食べものを噛んだり飲み込んだりする咀嚼嚥下(そしゃくえんげ)機能が衰えてしまった。
おじいちゃんは口からものを食べられなくなってしまった。
ご飯は細い管から取るようになってしまったおじいちゃんはいよいよ、気力を失ってしまった。わたし達が京都から東京に出向いても基本的にはずっと眠ったまま起きることを嫌がっていた。
あんなに好きだったラジヲも聞かなくなってしまった。あの元気だった頃のおじいちゃんはもういない…
東京の家に戻ると、もうあの鈴虫たちは鳴いていなかった。夏だというのにシンと静まりかえっていた。
「どうしたの?」とおばあちゃんに聞くと
「世話するひとがいなくなったから、とんと声がせんようになってしまった」と言った。
それから4年の月日が流れた。
おじいちゃんはツバが気管に入って起きる誤嚥性(ごえんせい)肺炎を起こすようになった。
点滴の栄養の入りも悪くなっていった。
わたし達はまた年末に再び東京へと出向き、おじいちゃんの側へといった。月に何度も入退院を繰り返すおじいちゃんのことを先生は
「この3日くらいが山だと思います」と言った。わたし達はベッドの傍に寄り
「おじいちゃん来たよ、おじいちゃん」と声を掛けた。おじいちゃんは、わたし達が来たことを知ってか知らぬか「うーん」と声を出した。
おじいちゃんの呼吸は不安定だった。呼吸は浅くそして早くもなった。突然数十秒止まることもあった。そのとき初めて生と死の境界線をみた。この瞬間までのわたしはひとの死に目に出会う経験があまりなかった。
介護のしごとはしていたけれど、死に直結する場面で働いてはいなかった。
その日の真夜中のことだ。
いちど東京の家に戻ったわたし達が仮眠を取っていると、突然電話が鳴り響いた。
「はい…はい」おばあちゃんは不安そうに電話を取っている。
おじいちゃんがいよいよ、危ないらしい。
「急ごう」父親は上着を羽織り、表沿いの角度まで出てタクシーを呼び止めた。
急いで乗り込み、病院名を告げる。
そのとき誰もが間に合ってほしいと願った。
しかし病院に到着したときおじいちゃんは既に亡くなっていた。そっと触れるとまだ生暖かいおじいちゃんの感触が残っている。
さっきまでこの世で生きていたひとが、数時間のあいだにこの世からいなくなってしまったことに何とも言えない気持ちになった。
そして、その施設の職員さんと旅に出てもらうための最後のエンジェルケアをした。
身体を綺麗に拭いて浴衣をきてもらうのだ。
ひとの死をこんなに身近に感じた初めての瞬間だった。
あれからもう7年ほど経つ。
戦前から戦後を生き抜いたおじいちゃん
いまも鈴虫の声が聴こえるこの季節になるとふと思い出す。
いまはあの空の向こうで、また昔みたいに元気に笑ってくれているかなと思う。
そしてそうであってほしいと思う。
あの空の向こうから元気な声で
わたしの名前を呼んでいてほしいと願うのだ。
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