3度目の殺人

3度目の殺人

この不穏さに圧倒された。
これは是枝監督の犯罪である。
と、同時に様々な問いを突き付ける問題作である。

法とは何か
裁くとは何か
真実とは何か
人のいのちとは何か
信じられるものとは何か…

3度目の殺人は法の危うさを問う。

ある夜山中という男がスパナで頭を殴られ殺された。
山中の遺体は殺害後燃やされた。
男を殺した容疑で逮捕された三隅高司は過去に人を2人殺めた事がある男だった。

物語は弁護を担当する事になった重森が面会に行くところを起点に少しづつ展開をみせる。
重森は多くの弁護士がそうであるように、弁護人の意志を尊重し勝たせる為に戦略を立てるのがポリシーだ。
しかし言い分が変わる被告人三隅の証言は信用がならない。
何の確証も得られないまま、三隅の身辺や被害者家族を調べるうちに
三隅にも被害者家族にも不穏な闇が広がっている事がわかる。
三隅が犯した過去の殺人を担当した刑事は言う。
「調べれば調べるほど、わからなくなった。
あれ(三隅)は、がらんどうのかっらぽの器だと思った。」
又、被害者が自身の娘に性的暴力をふるっていた事も分かった。
被害者の娘の咲江は三隅にこの事を告白していた。
咲江は三隅が自分を救う為に父親を殺したのだと重森に証言する。

作品は証言だけに焦点を当て何が実際に起こったのかをあぶりだそうとするが、証言ほど曖昧なものはないと我々は知る。
被害者の闇や法の限界や危うさに翻弄されるうち我々のうちに大きな疑問が次々に突きつけられる。

人間が法律のもとに人を裁くという事に限界はないか。
司法でも人の命を奪える権利を有するものがおり、世間にも人の命を奪う者がいる。
人の命に意味などあるのか。
人が生まれる事に意味などあるのか。

我々観客は重盛と同様、繰り返される複数の証言の中で迷宮に入る。
そして、何を信じれば良いのか、誰を信じるべきなのかという疑心暗鬼が作品全体を覆う。

同じ頃、重盛の娘が万引きをし重森は店に呼び出された。
この時娘は涙を見せるが、それは嘘の涙だった。
この涙が嘘である事を、重盛さえも気付けなかった。
その危うさに動揺する重盛の様子さえ私達を不安にさせる。私達が見ているものは信じられるものか。

信じられるものとは何か。
確信とは何か。

総方向からやってくる問に誰も答えを出さない。
司法も人間も答えを出せない。

この不安。
あまりの曖昧さに我々観客は不気味さを感じる。
作品に一環して流れる不確かさが作品の不気味さである。人間ほど分からない謎めいた存在はない。この不気味さは何か。

それは心が通う事がないという不気味さである。
作品の中で通じ合うものは、出てこない。
誰一人平穏にシンプルに人を信じている者がいない。
三隅と咲江との間にあたたかな交流があったようだと聞き知るが、実際にはどうだったのか我々には分からない。

この異様な不確かさが救いのなさとなり作品を一層重々しくさせている。

重盛は弁護人の弁護を優先する立場から、真実を知る事にシフトする。
三隅が面会の時に手を見せてくれと重盛に頼む。
その際にその熱で分かることがあると不可解な事を言う。
重盛は手を面会室のアクリル板の仕切りに押し当てる。三隅もそこに手を押し当てる。非常に不思議な緊張感のあるシーンだ。
その際、重森に娘がいることを告げられ幾つになったかを問われる。
こんな事で分かることがあるわけが無い。
しかし、この熱が何かをつまり無意識で我々が疎通するとは何かを一瞬我々に問う。

通じるとはどういう事だろう。

公判が続き、三隅は突然無罪を主張する。
それは被害者家族の娘を様々な尋問から救う為だと重盛は察する。
その為にその無謀な主張を受け入れる。

しかし、三隅の罪は翻ることはなかった。

物語の最後、面会に行く重盛と三隅の顔が
面会のアクリルの仕切り越しに近づく。

重盛 : あの娘を救う為にそう(無罪を主張した)言ったのですね?
三隅 :それはとても良い話だ。でも私のような人間にそんな期待をするものではありませよ。
重盛 :それはあなたがただの器だということですか?

ああ!!!
散々に迷路を歩いた挙句に、器であるなどという最も恐ろし答えをここで提示するとは!

しかし
これが是枝作品の真骨頂である。

二人の顔が樹脂の仕切りの上で重なり合う。

重森と三隅を隔てるものなど、ないのではないか。
ここにおぞましさを感じた観客も多くいたのではないか。

最後に重盛は犯行後の三隅と同じ仕草をする。
二人に大きな隔たりなどない。
重盛も器である。
その仕草はそれを示唆している。
つまりそれは、我々と三隅を隔てるものもないのだという示唆でもある。

問いの応酬に気持が怯える作品だ。
是枝作品はいつも後味が悪い。
しかし、技術がある。
役者のせめぎあいも素晴らしい。
作品の冒頭が真実であろうが、最後は重盛までもただの器に仕立てた。

これは是枝監督の仕業である。

私は不安から気分が悪くなった。
我々を確かたらしめるものを
我々は欲していることを知った。

我々が確信することは、証言などではない。
身近な人の寝息であり、隣の人の欠伸である。
ほっと一息つく時に飲む紅茶の味であり、
交わす抱擁であり、笑顔である。

日差しを感じ喜ぶ事であり、
雨の日に平和に眠れる事である。

ハッピーエンドは胡散臭いが
人を不安にさせるだけの作品も胡散臭い。
是枝監督の経験に裏打ちされた映像テクニックと演出に感嘆はすれど、そこに負かされはしない。

我々を我々たらしめるものは、
日々の生活に息づくものに目を凝らすことである。
身近な人に寄せる小さな想いや関心である。

社会の格差や理不尽に惑わされないものを見つけ抱きしめる事である。

私は少しの希望を集めるような、
そんな気持ちになった。
それこそが人間であるという気持ちになった。

私はこの不穏さに負かされはしないぞ、そう思った。
希望を少なくても探さなければならない。

3度目の殺人は是枝組の犯罪であるが、
私はそれに私を打ちのめさせない。
この決意も又人を人たらしめるものである。


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