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エリザベス二世崩御の報から見る英国と日本(王室と軍)

英国エリザベス二世の崩御の報あり、天皇陛下もお気持ちを表わされ服喪されている。そのうえで。しばしば報道などで「英国王室を手本として」という枕詞が筆者には疑問だ。確かに立憲君主制としての近似や海外に向けて日本の皇室を説明する際に簡便である点は確かにそうだ。昭和天皇は若き日の訪英でジョージ5世に影響を受けたようであり、1931年のウェストミンスター憲章に始まり、小泉信三から現上皇陛下にハロルド・ニコルソンSir Harold George Nicolson『ジョージ5世伝』(King George the Fifth, his Life and Reign, (Constable, 1952)の講義もあり、何かと英国王室にモデルを求めているところもある。

しかし、日本の国内的に、英国王室「手本」「模範」「モデル」と表現するのは本当にそれだけでよいか、歴史的な背景の相違を踏まえることも重要なではないだろうか。その一例が王室と軍の関係だ。崩御の報にあって、英国国防省の追悼ツイート(シャレではない念のため)が以下画像。大戦中の女王の貢献を前面に出している。これには正直驚いた

英国国防省
英国国防省のツイート
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軍用車両の整備に尽力
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軍用車両の整備のひとこま

1945年2月には、イギリス陸軍の英国女子国防軍に入隊し、名誉第二准大尉として、女性軍人として「エリザベス・ウインザー」の名および「230873」の認識番号において、軍用車両の整備や弾薬管理などに従事したほか、大型自動車の運転免許を取得し、軍用トラックの運転なども行った。それまでの女性王族は、イギリス軍などにおいて「肩書き」が与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、枢軸国によるイギリス本土上陸の危機(アシカ作戦)という非常事態を受けて、次期イギリス女王になることがほぼ確定されていたエリザベス王女はその慣例を打ち破り、他の学生たちと同等の軍事訓練を受け、軍隊に従軍する初めてのケースとなった。

wiki

ドイツの降伏を受けたV-Dayには父君ジョージ6世とチャーチル首相と並び、軍装のエリザベス女王が見える。

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対独戦勝記念で軍装で登場

今回の葬儀にあっても、男性王族は軍装で登場している。もっとも、いわゆる「追い出された」方は軍装は許されていない。それだけ王族と軍の「正式な」関係を示しているとも言える。

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今回の葬送の列

そもそも王族と軍の関係をさかのぼると微妙な点もあり、歴史的に王室と世俗権力(議会)と軍での緊張関係の起源がわかる。ちなみに、Royal Navy王立海軍とは言っても、草創期は商行為と武力が未分離で海賊と何ら変わらなかった。言うなれば「御用海賊」と揶揄もしたくなる状態だ。商売と無縁な武士たちが、当初から海軍を海軍として作った明治の日本とは非常に対照的である点も興味深い。

海軍が王立海軍(Royal Navy)、空軍が王立空軍(Royal Air Force)と名前なのに対し、陸軍には王立が付かず、イギリス陸軍(British Army)なのです。海軍管理下の海兵隊でさえ、王立海兵隊(Royal Marines)と名です。イギリス軍に入隊するには、王室への忠誠の誓いを誓わなければならないのに、なぜ陸軍には王立の”Royal”が付かないのでしょう。
これには歴史が大きく関係します。1642年に始まったイングランド内戦。チャールズ1世率いる王党派の王立軍と議会派の議会軍の間で起こったこの内戦は9年間の戦いの末、議会派が勝利。敗れたチャールズ1世はギロチンに掛けられ処刑された末、君主制は廃止され共和制のイングランド共和国が樹立。議会軍がその後の軍の主力になります。しかし、イングランド共和国は1660年に解散、チャールズ2世が復位し、君主制に戻り、軍は共和国から引き継がれます。チャールズ2世は最高司令官になりますが、父であり、王を殺した部隊に王立”Royal”という称号を与えることはしませんでした。

ミリレポさんのサイト

王立海軍と王立空軍は常備軍ですが、陸軍は建前上、実は常備軍ではなく、戦時中に徴兵される部隊になります。中世時代に常備の王室配下の陸軍は無く、戦争が始まれば各地の領主が兵を集め、君主の元に集い、王の為に戦いました。つまり、各部隊は王室ではなく、各領主によって育てられ、地域ごとにバラバラのルーツを持っています。また、名誉革命後の1689年に英国議会で可決された「権利章典」によって、王室は平時に軍隊を常備、統治することを禁止されます。編成するには議会の承認が必要です。これは、現在でもそうで、陸軍は実は建前上、常備軍ではありません。ただ、実際は平時でも編成されており常備軍ですが、存続のため、議会は5年ごとに英国陸軍の存在を更新しなければなりません。

ミリレポさんのサイト


19世紀-20世紀に入っての近代戦-総力戦(1次大戦2次大戦)へ、王室自身が軍に入っていき議会-軍-王の分裂を防ぎ、総力戦に対応する国民国家モデルでの王室という発想がその根底にあるのではないだろうか。それがジョージ5世伝に表れている。

一方で、日本はどうだろうか。

1873年(明治6年)12月の太政官達により、皇族男子の「本務」として軍人になることが明示されている。当時は「軍は一般文官より優位にある」と考えられており、西欧の「ノブレス・オブリージュ」に基づく立憲君主国の慣例と「皇族の尊厳性」を創出する手段であることが相互に作用した結果、義務付けられたと一般的には考えられている。

筆者なりの解釈としては、明治新政府は薩長のイモどもの命令に従わせるために天皇権威を利用したという側面が強く、皇族軍人もこれを補強する形で、皇族が軍に入ることにより軍の正統性を高める必要があった。英国での軍と王室の歴史的経緯の緊張関係とはこの点で対照的だ。

筆者は、特に秩父宮(昭和天皇の弟)の事績が印象に残る。一般の兵たちに交じり、渡河演習で率先垂範で先頭に川に入ったり、演習で弱った兵を「しっかりしろ」と肩を抱き、兵たちが感涙にむせぶ等、昭和初期には非常に国民的に人気が高かった。また、兵たちに対して同じ目線で接する等、上皇陛下の被災者に対する目線の原型ではないかとも思える場面にも出会う。
このために226h事件の青年将校に担がれかかるなど、秩父宮自身も、そして周囲もその位置づけに苦悩する様が保坂正康の筆による評伝からも読み取れる。皇族軍人を権威付けとしての「利用」から軍の政治への発言権獲得の「利用」へ明治憲法下でも位置づけはかなり難しく、問題もあったと言わざるを得ない。

 そして実態として基本的には皇族軍人は、英国に比べると「雲の上の人感」からは脱せなかった。総力戦・動員体制と言いつつも、女性皇族がエリザベス女王のように兵站の現場に出ることも無かった。筆者は必ずしもこの点を否定的には捉えない。しかし英国をモデルや模範とするのであればこの点についてどう考えるのか一考は必要ではないか。

むしろ、戦後になって明治以前の皇室の姿に「戻した」ともいえるし、明治から敗戦までが「天皇が将軍になった」という点で日本史での異例な状態だったとも言える。戦を嫌う皇室や朝廷の伝統(前近代の大半)からも、そもそも明治-昭和の天皇と軍の関係の在り方が異質で日本の天皇の伝統から逸脱していたとも言えるのではないだろうか。この点の相違を踏まえずに「英国モデル」の無条件礼賛には違和感を感じる

しかし、一方で、戦後になって、皇室と軍(自衛隊)との関係は断絶したままだ。自衛隊の追悼式にはまだ一度も出られてはいない。(もっとも首相ですら毎年出席が慣例化したのは近年だが)

他にも例えば軍の儀式に「栄誉礼」がある。日本で国賓を招いた際に他国(一般的に)では国賓とその国の元首は並んで儀仗隊の栄誉礼を受ける。しかし今の日本では、天皇陛下は自衛隊の儀仗隊の栄誉礼は受けない。外国での天皇陛下をお迎えした歓迎式典は、天皇陛下はその国の元首とともに軍隊の儀仗隊の栄誉礼を受けられる。他国の軍隊の儀仗隊の栄誉礼は受けられても、自衛隊の儀仗隊の栄誉礼は受けられない。

トランプ大統領来日でも栄誉礼は天皇陛下は受けない。

言うまでもなく、軍(自衛隊)の位置づけに国民的合意が無い、とされるためだろう。しかもそれは役所のことなかれ主義の延長に過ぎない。一見するとリスクを避けているように見えるが、「ことなかれ主義」は役所のリスクを回避しているのであって、日本国のリスク、歴史における天皇のリスクをかえって高めていることを国民全体で認識したほうがいい。

今後、天皇と軍(現自衛隊)との関係を構築していくのか、非常に難しい問題でもある。単に「英国を手本」だのと簡単に言える問題でもなく、令和の時代を生きる国民自身が考えていくことでもある。モデル探しでもない独自の皇室のありかたの模索の必要を改めて感じる。

なぜなら皇室は日本独自のものであってそれ以外の何物でもないからだ。エリザベス女王の崩御での軍の登場の場面は改めてそれを教えてくれる。


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