見出し画像

「自分を楽しませる」手段は、いくつあってもいい

先日、メンタルトレーニングのオンライン講座に参加しました。
こんな時勢でも学習ができるのはありがたいことですね。

さて、講座の中で「感情そのものはコントロールできない」ということが前提で話されており、なるほどと思いました。
わきあがる感情を抑えたり、何かの感情が起こるように仕向けたりはできず、感情の起伏は起こってしまうものなのですね。

もう少し詳しく、メンタルとは何かを考えてみます。
メンタルの領域には「本能」「理性」の2つがあり、感情は本能の領域に含まれる。
「本能」は、小さな子どもなので(2才児、とおっしゃってましたね)、感情がわき起こること自体はコントロールすることができない。まるで駄々こねる子どものようなもの。

では、わきおこった感情をどうするのか。
その方法として、「あー、今そういうのが存在しているのね」と客観的に見て、認めていく。
いい・悪いのジャッジをするわけではなく、ただそれが存在していることを認めることが、感情のコントロールにつながるのだ、ということです。

ふむ、なるほど。
わたしはネガティブな感情に悩まされた時期が長いので(今もつい悩まされたりするけど)、何度か同じような話を聞いたことがあります。
イライラや不安があったときに、まずその事実を観察する。
イライラしてるんだな、不安なんだなということ認め、それでいいじゃないかと思うことが、自己肯定につながるわけです。

一方で、今回講座を受けて考えたのは、「ポジティブな感情についてはどうなの?」ということでした。

例えば「楽しい」という感情であると、「楽しい気持ちがわく」こと自体はコントロールできないわけですね。
つまり、「これは楽しいはず」という期待に対して、「楽しい!」という感情は必ずしも起こらないということです。
経験的にも、「楽しいはずだったのにそうでもなかった」ということが結構あります。
その時、その状況では、自分の中の小さな自分には楽しむための仕掛けが届かなかったのですね。

「ポジティブな感情を感じたい!」と思っていても、それが100%保証される手段はないかもしれません。
もしそうであれば、「ポジティブな感情を感じるための手段」自体を、複数確保しておくということが重要になるのではないでしょうか。

例えば、自分自身が安定しているときに感じる楽しみと、本当に沈んでいるときに何とかする楽しみって、少し毛色が違うような気がします。
だからこそ、「どんなときにもこれ」と依存的にとらえてしまうと、自分の楽しさは制限されてしまいますし、この瞬間に「楽しい」が「正しい」に変化するように思います。

まさに「こんなんなんぼあってもいいですからね」ということです。

「楽しむ手段→楽しいという感情」の検証だけでなく、「自分が楽しさを感じたその時に、何があったのか」も観察できるといいように思いました。
自分の楽しさに敏感であることが、楽しさの手段自体を広げていくような気がしています。

あなたが「楽しい」と感じるとき、そこでは何が起こってますか?

では、またのちほど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?