一口エッセイ:死に方と魔
倫理や善悪、常識に宗教観はいっさい無視して、単純に「死ぬ直前の気持ちよさ」だけ考えた場合の効率を考えてみる。僕の場合はどうしても「第一発見者が見つけた時点での死体の保存状態」も含まれるから、そこも重要な項目として考慮します。
まず、前提条件として、脳内麻薬的には「死」は気持ちがいい、またはトランス的な刺激があるものとする。自傷をしても薬物を使用しても、要は死に近づくことで脳内物質を過剰に分泌して気持ちよくなる(刺激を得ている)という理屈なのだから、話が逸れるので念押しして倫理を置いておく仮定ならば、やはり「非日常の気持ちよさ」は間違いなくあるでしょう。逆に、事故などで何もわからないまま気づいたら死んでいるのが最も勿体ないように思える。交通事故には気をつけよう!
その上で死体の保存状態。別に死後しばらくすれば、焼かれようが解剖されようがどうだっていいけれども、死体が発見される瞬間は綺麗でいたい。誰かが僕の死を「観測」した瞬間に、自分の人生が完成されると感じているので、「第一発見者が死体を見てどう直感したか」を重視している。その際、発見者はただ観測すればいいので、別にどなたでも構わない。その条件から調べてみるに、ゆっくり死んでいくうえに途中で感覚が麻痺するので恐怖や痛みも薄く、なんなら幻覚を長く体験できるし死体も冷気で比較的清潔に保存される「凍死」は良いと思う。どうしても怖ければお酒や睡眠薬も役に立つ。山の中ならどうせ酩酊したとてどうにもならないので、半端に失敗する可能性も薄い。
ただ、これはただの眠る直前のしょうもない空想にしか過ぎず、もちろん実際は僕なりに浅くも倫理や常識を持ち合わせており、なにより自ら死を選ぶほど絶望していないので、これは遠い遠い先の僅かな可能性でしかない。睡眠薬で強制的に脳みそがシャットダウンされていく瞬間は心地よく、そこから膨らませると凍死だろうと思っているだけで、そもそも「一秒でも早く現世から逃れたい」と焦っているならまた別でしょう。まず山に入る必要があるので、この方法はかなり遠回りなのだ。山に向かうための新幹線なりバスなりで考え直して引き返す確率は十二分にある。殺人だろうが自殺だろうが、計画性よりも、魔が差した瞬間に運悪く条件が揃ってしまっているかが問題です。そういう意味では、凍死は準備が大変なので「魔」が持続するかが懸念となる。
なんにせよ「魔」に唆されて破滅するのは格好が良くない。どうせ人生に意味がないと感じているなら、なおさら格好を気にする方がマシなのですね。なので、「ここで潔く死んだ方が格好いい」と結論づけないよう、その一線だけは保って生きていくことが重要なのかもしれない。今は他人の意見は関係がない。他人の意見や評判こそが、倫理や常識としているので、冒頭で今回はそれは無しだぜと書いているからね。だから、こんな文章に何かを影響されてしまうなら、あなたはまだ倫理や理性が固まっておらず、「魔」が入り込む隙を残している。