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どちらが死に近いか

 肉体的な死でなく、精神的な死であるなら僕の方が地獄と紙一重な筈。僕は2年後にはアニメを放送していなければならず、それは自分にとって誇れるものであるべきだ。そこに失敗すると僕の魂は間違いなく折れる。腐る。
 そのため多くの責務に追われるなか、苦しみがスマホ越しに漏れて弱音を吐露することもある。その際、知らない人から「苦しさを呟いて人に見てもらえるんだろ。俺はどうしたらいい?」と引用で言及された。気持ちはわかる。本人も僕を攻撃したいわけでなく、率直な感覚が溢れでたように見えた。見てもらえないことは苦しい。
 ただ、僕も間違いなく苦しい。何億のお金、何百の人間を動かし、その代表として脚本を書き、シナリオを最大限理想に近づけるため画を監督していく。生活の何割か、それこそ夢の中まで作品のことで脳が埋まる。憧れに近づく恍惚、神に近づくための教会が完成していくエクスタシーに近い非現実的な陶酔を覚える反面、あらゆるプレッシャーと同居している事実もイコール。
 現状は上手く進んでいる。とてもありがたいことに、多くの人間たちも、「ここが人生の見せ場」だと全力を尽くしてもらっており、脳内で描いた理想は夢物語でなくなった。
 けれども、この世のすべては不確定。
 こんな状態からも急転落はあり得るわけで、つねに数%、目も当てられないほどの駄作が生まれてしまう可能性はあるさ。
 そりゃ、人間は何度だって挑戦できるけれども。
 僕の頑固すぎる性格はそう割り切れるものではない。数年、いや間違いなく数十年は引き摺る。生きてはいるものの、精神的にはゾンビのように、後悔だけで埋め尽くされた生活が続く可能性、生き地獄への切符もポケットへ突っ込まれている。つまり「死」と隣り合わせなのだ。
 いついかなる瞬間でも、「死」が近づく。
 放送予定日という運命の刻が定められているなか、本能は死への可能性を0.数%でも下げようと必死さ。あなたは次の一撃でかならずラスボスを倒さねばならない。計算上そこまで不可能なことではないが、誰だって万全を期して、熱血や集中、ありったけの精神コマンドを使い切るだろう。そういう感じ。死なないための0.数%と日々格闘している。つねに気を張りながら暮らしているんだ。たまの弱音だって許してほしい。
 そうなると僕の頭の中では、「でもあなたは生死の審判の日が来るわけでもないでしょう」と認識してしまう。慢性的な怠さ、報われなさを覚えているのは本心であろうとも、立場的に、社会的に、何より己の魂が本物であったか世界中から見極められる、死へのジャッジが近いうちに用意されているわけではない。申し訳ないが、僕だって十二分に崖っぷち。僕の苦しみや圧迫感がとんでもなく重いことも、あなたが創作物に救われたことのあるオタクなら分かってくれるでしょう。
 どうでもいいんだ。2年後に生きるか死ぬかを裁かれるのだから、それ以外のあらゆる苦難はサブクエストに過ぎない。大して気にしないから、逆に気軽に話しかけたりしてもらってもいい。そりゃ傷ついたり疲れたりすることもあるけれど、己の真後ろに奈落に繋がる崖が迫っていることに比べれば、すべてのことは些事だ。
 僕に引用で「お前は苦しみを見てもらえるが俺はどうしたらいい?」と言及した人のことも考えはするさ。だからって具体的になにをしてもやらないが、こうして返事はした。僕なりに「見た」うえで、死がそこまで来ていないのなら、まずはその喜びから逆算してみたらどうでしょうと、自分なりに回答をした。いいじゃないか、上京して誰とも会話しなかった半年間、僕の孤独はTSUTAYAでレンタルしてくるDVDだけが寄り添ってくれたけれど、それはそれで幸せも感じていたよ。見てもらえないなら、自分だけが自由に作品を眺める楽しみもある。申し訳ないけれど、勝手に好きに返事をしたところで、他者の反応もまた些事で、アニメの進捗に比べて些細なことでしかないが、そこはお互い様だからね。僕の精神の安定なんて、この世界の誰も気にしない。
 僕の魂が燃え尽きるか輝くか、真実とフェイクの境界に決着のつく瞬間を見ていてくれ。もちろん一緒に死んでくれるなら心強いが、残念ながら僕の死は僕だけが向き合わねばならないらしい。
 

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