見出し画像

ICUC-069_2021.7.18【他人は自分の思い通りにはならないことについて】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee

参考図書
─ ─ ─ ─ ─

角田陽一郎69「他人は自分の思い通りにはならないことについて」ICUC知的好奇心向上委員会 
ゴルフに、仕事に、人間関係。
あらゆることは自分の思い通りには行きません。
今日は、そんな話をしております。

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

ゴルフと太極拳(と歳)で肩の力を抜く

 おはようございまーす。バラエティプロデューサーの角田陽一郎と申しますー。えーと…今日は何日だ?7月18…かな?(笑) はい。なんか日付もよく分かっておりませんが、日曜日の午前中でございます。えーと、私はですね、ちょっと今日もまた車の中でこのICUCを喋ってみようかなーなんて思いながら今、喋っております。
 昨日はね、ボク、土曜日ですね、ゴルフに行ってきましてね。で、ゴルフって実は15年前くらいは結構やってたんですね。30代半ばぐらいは。もう30代くらいの時からかな。30〜35、6くらいまでは。それこそ「さんまのSUPERからくりTV」では毎年「からくりゴルフコンペ」ってのがあったりして、さんまさんとかね、関根勤さんとか、浅田美代子さんって、すごいゴルフが上手い方でいらっしゃるんで、そういうのをやったりとかしてましたし。「金スマ」でもですね…「中居正広の金スマ」をやってた頃もなんかゴルフブームになって、中居さんと大竹さんとも何回かゴルフに行ったりとかしておりました。
 で、ですね。何が言いたいかというと、上手いのか?って言うとめちゃくちゃ下手なんですよ。んっふっふ!全然めちゃくちゃ下手。もう本当に、数字も言いたくないくらい下手なんで、別にそれがどうしたこうしたではないんですけど。で、そこから、まあ、止めちゃったって言うか、機会がなくなったんで。逆に全然…なんて言うんだろうなぁ、ずーっと無くなっちゃいました、その機会は。なんかね、そういう意味では久しぶりに今回ちょっと知り合いが…知り合いもなんか新しく始めたって言うんで、じゃあちょっとボクも行きましょうなんて言って6月…5月か、に、1回行ったらなかなか面白くて。で、今回もそのメンツでもう1回行きましょうみたいになったんで、まあちょっとお誘い頂いて行って来たわけです。
 でね。何が面白いのかなーと思うとすると。えーとー…この話してないよな?まあ、しててもいいか(笑) はい、あの、数字が。ごフルのスコアが15年ぶりにやった割には。で、全然練習とかしてなかったのに、そんなに悪くなってないというか。むしろちょっと良くなってるというか。それって自己分析すると、単純に肩の力を抜けるということを若い頃の方が覚えてなかったんだなーなんて思うんですね。歳とってくるともう体力がそもそも落ちてるからかも知れないですけど。
 肩の力ってのが抜きやすくなったんだよなーなんて思ったのと。えーと私その間に、2011年から太極拳を始めてて。でもこれ、太極拳ってのもの別に健康クラスなので、全然また上手くもないんですけど。それをまあ定期的にやってるもんですから、太極拳で一番学んだことって肩の力を抜くというか、全身の力を抜く。それでなんか力を抜くということが出来たので、結果ゴルフの方も力を入れないことが…だから30代半ばでやってた頃は力を入れまくってたのが、力が入らなくなったんだよなーみたいなことを、こう、感じるわけです。

どう良くするか?よりどう悪くしないか?

 で、まあそんな感じでやってると、なんか下手くそなりになんか一応まとまった数字になるんだなってことが分かるわけですよね。で、それをこうやってて、まあ何でもそうなんですけど、つまり結果的にゴルフの数字、スコアを良いのにするのって良い数字を取るか?ってことよりも…なんて言うんでしょうね、良い数字を取るか?と言うよりも、どう悪い数字を取らないか?って言うか。だからどう崩れないか?って言うか、どう安定するか?みたいなことなわけですよね。とすると、なんかそれって、もう今日の話の確信に…確信?確信に迫ってるとすると、その…どうブレないか?みたいなことを人生でも仕事でも何ならゴルフでも、もしかしたら麻雀とかでもそうかも知れないし、分かんないけど(笑)、運転もそうかも知れないし、人間関係でもね…と思うと、どう…平常心というか、どうブレないか?ってことですね、
 やっぱりね。どう…あたふたしないか?みたいなこと。ゴルフで言うとね。やっぱりそういうことが基本は肝要なんだなーなんてことがわかってくるわけです。で、そう思った時に、なんかね、自分が何か思考して新しいことをやりたいなーなんて思った時に、その思いが立ち上がった時と、それが実際始めるってなった時と、それが波に乗る、あるいは頓挫するみたいなこと…みたくなった時って、思考自体もブレて来ますよね?で、これ今あるプロジェクトとか企てみたいなことで想定して言ってますけど、もっとよりダイレクトに言うと、人間関係とかもまさにそうだろうなーなんて思うわけです。だからなんかこう初めてその人とのね、初めての人間関係が出来上がったとして、その人間関係って言うのが何か、初めの時にはこういうこともやりましょうって事に関してすごいお互いがお互い、ある意味夢を持ってるから、なんか良い方向に進むんだけど、そのうち思考というものがやっぱり続いていくことでむしろブレて行くっていうこと…上手く表現できてるかな?だから当初もブレてるんだけど、当初はまだ相手のことがよく分かってないからブレてないんですよ。ブレてることに気づいてないというか。うん。ところがそれを続けてやって行くとブレて行くことに気づく。それがこうその人との、人間関係で言うとね、なんかこう距離を生むと言うか、相反していくみたいなものが見えてくるというか。
 だから結果的に最初の頃も…だって全く自分と同じ考えの人なんてこの世にいないわけだから、まあ居たら居たで気持ち悪いんだと思うんですけど、いないわけだから、そもそも同じ円だったとしてもブレてるんですよね、回転がね、ところがその回転がブレてることって、出会った時にはワクワク感みたいなもので見えてないんですよね。よーし!これから一緒にやるぞ!とか。で、それが何年も経って行くことで、やっぱりブレが生じて来ると言うよりは、元々あったブレが顕在化してくるみたいな。で、そのブレが健在化してくると、ぐるぐる回ってる個人と、グルグル回ってる個人みたいなのが、独楽の様にカンッカンッカンッカンッカーン!っという風になると、人間関係って対立したりとかするんだろうなーなんてことをね、すごく思うわけです。
 だからゴルフの話に強引い戻すとすると、そのゴルフの時にスコアをどう良いスコアを取るか?ってことは如何にブレないか?って話をしたと思うんですけど。その、ことプロジェクトをやるとか、仕事をやるとか、人間関係を構築するとかみたいな時に、自分が思ってることをどうブラさないか?というより、自分が回ってる円だとして、他人も回ってる円だとして、それとそれがどう戦わないのか?みたいなことの方が、結果的にブレてることを無くすことは出来ないんだけども、そのブレとブレが生じてるところに軋轢を生まないようにするということが大事なのではないかなーなんて思うわけです。

母と2時間話す

 でね。なんでそんなことを思ったかと言うと。まあ、昨日のゴルフは千葉の方に行って来たんですけど。私、千葉は地元なので、実家があるので。前回もそうなんですけど、今回もですね、ゴルフ終わりで実家に寄って来たわけです。まあ実家にはワンちゃんがいるんですけどね、パグのね。可愛いんですけど。まあそんなパグと戯れながらみたいな感じで。
 で、親父は去年他界してるんで、お袋と話して来たわけですね。まあ何だかんだ言って2時間くらい話したかなー、うん。で、そうするとね、まあなんて言うか、お袋の愚痴を聞くわけですよ。でもその愚痴って…突き詰めると周りに対する不満だったりするわけですね。でも周りに対する不満というのをお袋の立場からすればそう思うことって全くすごい分かるんだけど。その周りって言うのは僕の兄妹だったりとかね、同居して…母と同居している家族の、なんて言うんだろうなぁ、家族への不満みたいなことだったりするんですけど。聞いてれば聞いてるほど、まあそうは言ってもさぁ、じゃあ家族の方の気持ちにもなってみてよ、みたいなことをボクは盛んにお袋に言ったりしたわけです。
 だから言ってることは分からなくもないんだけども、お互いじゃあそれを…一緒に住んでる方の人間もまた同じような軋轢的なものをやっぱり感じてるわけですよ。だから何でこんなことやらないの?って言うのを、例えばちょっと口調を激しく言ってしまうと、何でそんな風にやらないの?って激しく言われたからやらないんだよみたいな(笑) ところってあるじゃないか、と。だから本当は何かやって欲しいことがあるんだったら「何でやらないの?!」って言っちゃダメっていうことって、今のブレてるって話で言うと、何であなたは私との考え方がブレてるの?ってなった時に、だから元々ブレてんだよ!って言うか。とすると、何でブレてんの?って怒られるとそのブレはやっぱり何かこう…怒りになったりね、怒りといか嫌悪感になったりとかね、やっぱりなって行くんだよなーなんてことを思ったわけです。
 まあそんなことをお袋にね、母に話してて。結構…ちょっと言い争いみたいな感じになったんですけど。で、まあそれは色々あるんですけど…。う〜ん、母の精神状態とかもあるし…何ですけど。まあ高齢なわけですよ。
 そうすると…ね、高齢な人間ってすごい賢者みたいなね、イメージあるじゃないですか。ロード・オブ・ザ・リングじゃないけど白い…ガンダフルでしたっけ?白髪で長い白髭を持った長老、賢者、みたいなね。つまり老人っていうのはどんどん悟って行くものだみたいな幻影みたいなものがあるんだけど、去年亡くなった親父とか、今の母親とかを見ても、どんどん…こう言うと、まあでも自分の親だからあえて言っちゃうと、どんどん嫌な人間になって行ってるなーって。日に日に。年々。思うわけですね。
 で、これって自分が回ってる独楽と他人が回ってる独楽があった時に、そのブレの補修、補正みたいなものって、若い頃は何となく知性で、まあそうだけどやらなきゃいけないよなーみたいなことで、たぶん対応できるんだけど。だんだん自分が足腰が弱くなって来たりとか、身体的に疲れやすくなってくると、もうその他人とのブレに我慢できなくなるんだろうなーなんて思うわけです。
 でね、今そう思うと若い時って社会とか家族に対する、まあ思春期の反抗みたいな話ってあるけど、やっぱりちょっと反骨心というかがあるのって、それはやっぱりアレですよね、今のブレのメタファーで言えば、自分というのは確固たる回ってるものがまだ出来てないから結構ブレてたりしてるんだけど、他人のブレみたいななのが我慢できないんでしょうね、きっと。若い頃とかはね。で、それが歳とってくると何となくようやく受け入れて行くと言うか、まあ諦めということかも知れないし、それをまあ諦めと言うと語弊があるんだったら享受して行くというかね。諦念じゃなくて享受みたいなことかも知れないけども、そう言う風に相手のブレというものも自分と同じぐらい…自分のブレとすごい違うんだよなーってことを、なぁんか悟ったりすると、何となく、何となくですけどね。でもそれでもやっぱりボクはじゃあ会社辞めたのか?って言うと、その会社が、今度は会社という回ってる感じのものに自分というものが…う〜ん、やっぱり合わないな、と思ったり。なんなら抑圧されてるなーなんて思ったりしたりしたのかも…知れないですよね。

他人というのは自分の思い通りにはならない

 なんか話がまとまってるか分からないんですけどね。だからその時にね、その…でもお袋の話に戻すと、お袋はでも自分の子供なんだからもっとこうしなさいよ!って言ってるのよーみたいなことを言うんだけど。でもそういう風に思った時に、もう人間関係なんてもう実は親族だとか友人だとか、あるいは他人だとかいうことって、もうなんかある意味一緒なんじゃないかなーなんて思ったってことを言ったんです、ボクからね、母親に。うん、やっぱりそれを何かやるってことは、やっぱり気分が乗ってればやるって言うか、やっぱり気持ちよくやるというか。で、気持ちよく無くてもやる時には、やっぱり必要なのはじゃあその分お金ちょうだいよみたいな。その分、それをやってあげる事に対する自分側へのメリットがあるから多かれ少なかれやるわけですよね。で、多分親族ってのはそんなメリットみたいなものにある意味目をつむって、親族だからやらなきゃいけないみたいなことで、うん…例えば親が子供に教育をというのもあるかも知れないし、夫婦関係ってのもあるかも知れないし、今度は自分側が親に対する介護みたいなものとかもやっぱり結局こう…なんか親族というようなものの、なんて言うんだろうなー、感情みたいなもの、自分は血が繋がってるみたいなことでそういうのを対応できるんだと思うんだけども。それってやっぱり年々、年々、だからボクの親の世代よりもボクの世代、ボクの世代よりもさらに下の世代って、やっぱり希薄になってるような感じはありますよね。
 ああでも希薄になってると言いながら、なんかボク実はボクなんかより若い子たちの方が希薄になってないなーとはちょっと思ったりもしますけどね。たぶんそれって社会というものが揺らいできてるから、自分の親族に対するところでなんか守られてるって感覚が若い子達の方がボク達なんかよりも強いんだろうなーって思ったりもしますけどね。
 うん、だからなんか親と仲が悪い子供達って、当然何割かの割合ではいるんだとは思うんだけど、なんかボクらが若い頃なんて「全く、なんとかだよなー」みたいな感じで結構自分の両親のことを卑下して言うこととかが多かった気もするけども、今普通に若い子達ってピュアにお父さん、お母さんのことを愛してる人が多いなーなんていう印象は受けます。まあそうじゃない人も当然いるんだと思うんですけど。
 だから、なんて言うか…、まあ簡単に言ってしまえば、そりゃ親族だろうが他人だろうが、他人というのは…他人というのは。なんて言うんだろう、自分の思い通りにはならないってこと(笑) って、もう、至極当たり前のことを言ってるんですけど。うん。他人というのは、うん、自分の思い通りにはならないんですよね。
 その自分の思い通りってのは命令って意味じゃなくて。もっと希望的観測とかも含めて。それが相手側の希望的観測みたいなものと一致したりすると、そのブレというものが奇跡的に無くなって同心円みたくなって、なにかこうハッピーなような感じになるんだけども、それを長く維持し続けることってのはなかなか難しい。難しいし、困難がつきまとうことだから、それに対してそれ相応の努力をしないと上手く行かないんだろうなーみたいな。それ相応の努力ってのはある意味、さっきも言いましたけど諦念みたいなっはっは(笑) 諦めみたいなものもないと。
 うん、まあ、だから、すごい嫌な言い方すると「まあ、あの人に言ったってしようがないよね」みたいな。「あの人はそう言う人だからね」みたいなところのことをちょっと、むしろ自分側が受け入れる、あの人に対してもっとこうしろよ!って思うわけじゃなくて。まさにそれはお袋に言ったんだけども、あの人に対して自分の考えを押し進める、押し通す、ということではなくて。自分側がその相手とのブレというものを受け入れるしか基本的には共存できないのではないかなーなんて思ったりするわけです。

穏やかになるしか方法はない

 うん。で、さっき途中で言いましたけどね、それってこう人間関係が初めてできた時とかはね、なんか夢みたいなものがあると、なんかその夢に向かって一緒に頑張ろうぜ!はい!みたいな。頑張ります!頑張りましょう!みたいな感じでそのブレみたいなものが見えてないから、なんかさも上手く言ってるように見えるんだけども。その中で実際それを軌道に乗っけて上手く進めようとすると、やっぱりそれ相応の努力はね、しないと。それこそ仕事関係でも、恋愛関係でも。で、それはまさに身内でも。親と子とかね、兄妹とかも含めて。なんかお互いがお互いを気にするというか、気に留めない限り、やっぱり無理なんだろうなーなんて思ったりするわけです。
 そう考えるとね、今、あの…来週オリンピックですけどもね。開会式の話でね、コーネリアスさんのことでちょっと色々物議を醸してるけどもね。うん。…あの件に関して言えば、いろんな思いが色んな人があったりするんだろうなーと思うんだけども。まあボクにもある一定の思いがあるけども。うーん、なかなか…なかなか難しいですよね。すごい過去の話っていう意味だけども、本人もね、Twitterで上げてましたけども。でもそれをそう思ってた、そういう行為をしてたってことは事実でありって言っててね。で、それが当時のサブカル的な、なんか鬼畜的な文化みたいなものの中で、そういう表現をすることが…許容されてたというか…だったのに、今はそれが認められないみたいな。でもそれってジェンダー論でもそういうことってあるしとかね、別の話でもね、特に人間と人間の関係みたいなものにおいてはそういうことって多いじゃないですか。
 で、それってさっきの、無理くり自分の母親の話に戻すと。自分の母親世代はこうだったから、これを子供世代の人にも要求するってことが難しいってことは、まあ母親自身も分かっていたけども、でもそれを潤滑にやるってことはやっぱり…ぅーん、、、穏やかになるしか方法はないんだなーって思うわけです。だからなんかこの穏やかになるっていうことって、すごい必要なんでしょうね。他人は自分の思ってる通りにはならないってことを穏やかに受け入れるというか。
 …うん、まあ、ことが深刻になればなるほど穏やかに受け入れられないですよねぇ。うん。だからコーネリアスさんの話でもね、結局自分がそういう当事者の経験がある人にとってはもう絶対受け入れられない話なんだろうなーなんて思ったりもしますね。

あらゆる人の悩みは人事

 いずれにしても呪われたオリンピックであることは事実ですね。あのエンブレム問題から競技場のザハさんのデザインじゃ無くなったことからとか。で、このコロナで1年延期とか。色々いろいろ、なんか軋轢みたいなものがどんどんどんどん、次から次へと起こるなーなんて思うと、なんかね、今言ったボクの中ではお袋がボクの兄妹、妹に対して思っている軋轢とね、なんかすごい似てるんだよなーなんて思った次第なんですけどね。
 でもそれって共通するという意味で言うと、やっぱり自分というものがあって、それとは違う外部世界みたいなものがあって、他者ってのは外部世界にいて、オリンピックってのは外部世界にあって、小山田圭吾ってのも外部世界にあって。で、その中でやっぱりそれぞれ個人がね、その外部世界とどう触れてるか?みたいなところで、触れるってことはやっぱり自分が思っている、自分という円とぐるぐる回っている時のブレみたいなものが起こると、その外的世界との間にガチャガチャガチャッとぶつかりあったりして。独楽がくるくるーっとぶつかってるイメージですけど。そこにこう衝動、衝撃というかね、軋轢みたいなものが生まれるんだろうなーなんて思ったりもするんだけども。それを防ぐことは多分出来ないとしたら、それを受け入れるとすると、せめて自分の中で、そのことに対してやっぱり恨まないというかね、妬まないというかね、僻まないというかね、嫉みを感じないというかね、そういうことでしかないんだろうなーなんて思ったりもします。
 人事ってね、人の事って書いて人事って言いますけど。なんか、あらゆる人の悩みは人事なんだなーなんてことをやっぱり思いますね。それって、いや当然環境破壊だとか災害とかっていう自然環境での悩みとかもありますし、事故とか事件みたいなものをあるっていう意味で言うと、あらゆるものが人事だと言っちゃっていいのか?ってのもあるけど。でもそういうことが、ね、必然的に起こってしまうって言うか。全てが起こらないようにするのは無理だなって思った時に、仮にそういう事が起こった時に、それをどう対応するか?ってことが結果的に他者にどう頼るか?あるいは他者にどう助けてもらうか?みたいなことだとすると…。と言う意味まで含めて、外的世界の軋轢というものはとか、外的世界との…なんて言うんでしょうね、軋轢ばっかり言ってると悪い話になっちゃうけど、外的社会との関係性において、良いことも悪いことも全部人事なんだなーなんて思ったりもしますね。うん。

きっと軋轢も流転する

 いやぁー…、なんかね、自分の親の話だけに。なんかね、昨日は疲れましたね(笑) 親と2時間ぐらい喋ったんですけど。うん、別にだからって解決策があるわけでもないし。なかなか難しいなーなんて思ったしね。自分も自分の…ね、親以外の人間関係においてもボクはまあ比較的過剰な人間なんで、他者とのね、ブレというものが広く受け入れるというのがない限り、やっぱりブレとブレの間には軋轢は生じちゃうよなーなんて思いますね。
 そうするとボク自身がね、これは他の方は分かんないけど、ボク自身がやれることって、他者とのブレをやっぱり受け入れるしかないんだなーなんて思うと、うん、ちょっとした諦念みたいなものを感じるとちょっと寂しくもなったりとか、虚しくもなったりもしますよね。でもどうせ寂しくもなったり虚しくもなったりしても、それ自体はもうどんな人間関係においても必然的なものだから、もうそこは…(笑) 昨日お袋に言ったんですけど、最終的にはケセラセラで行くしかないんじゃないの?みたいな。うっふっふ、もうケセラセラみたいな話になっちゃうんですよね。最終的にはね。それ以上に…ないですね、解決策、解消策というものはね、とは思います。うん、なかなか…なかなかですよ、人間関係って。でも逆に言えばだから面白いのかも知れないですけどね。うん。
 享受するって…諦念と享受の一番の違いってもしかしたらそこかも知れないですね。実は同じことを言ってるだけかも知れないけど、なんか、ね、享受の享ってトオルみたいな意味が漢字としてはあると思うんだけど。自分の中でちょっとこう「ふふん!」って笑っちゃう感じ?まぁしょうがねぇか!っていうね。そのしょうがねぇかっていう感じになれるようなことと、そんな風になれないで、やっぱりこう忸怩たる思いをずーっと持ってしまうみたいなこととかも、やっぱり、やっぱり、あるんだけども。でもそこでね、嘆いていても始まらないし…みたいなことかなーなんて思ったりもします。
 これね、こんなことをいっつも喋ってますけど。ICUC 知的好奇心向上委員会では。こんな思いって…どうだったんだろう?コロナ前ってしてたのかなぁ?……してたんだろうなぁ。それこそ2019年とかは父親の病気が発覚したりとかして、ぅ〜ん。でもその前とかもそれはそれで会社とのまさに軋轢(笑) あったかどうかは置いといて。会社を辞める辞めないみたいなこととかもあったし。じゃあその前は会社の中にいて、自分はじゃあ、なんて言うか番組当てるか?当てないか?みたいな意味で軋轢があったりしてとか。上司と部下との人間関係においてとか。
 ぅ〜ん、今自分が感じている、なんかこう軋轢みたいなものとは全然種類は違うのかも知れないけども、やっぱり思っていたんだと思うんですよね。ただそれが、なんて言うんでしょうね…変わって行ってるだけ。軋轢も流転する!というか(笑) 軋轢も流転するんですよ、きっと。うん。ってことは、今ボクが思ってる軋轢的なものというのは、なんか仮に…解消するかどうかは分かんないけど、じゃあ享受したとしても、また違う軋轢みたいなものがなんかポコッポコッポコッと、きっと生まれてくるんでしょうね。うん…それを楽しむしかないか、なんて思いながら。
 …どうなんだろうな、それを打開する方法みたいなものって、たぶんボクは今探そうとしてるんだろうな。でもやっぱり色んな意味で知的好奇心向上委員会じゃないけども、その自分の中にの知的好奇心みたいなものというのが、ね、今のある軋轢みたいなものを抹消させる効果ってのはあるなーなんて思いますね。ただその知的好奇心ってのはまた次の軋轢の種になりそうなものに自分を近寄らせて行くっていう(笑) ね、なんて言うの?毒でもあるし、薬でもあるというような感じかなーなんて思ったりもします。
 はい。なんかまとまってるか、まとまってないか分かりませんが。知的好奇心向上委員会、バラエティプロデューサー角田陽一郎でございました。来週はオリンピック始まってるということで。なんか、どうなってるんでしょうね?はい。

画像1

文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 なるほど。前回の Driving ICUC ではTシャツに黒くて小さいマイクだった。あれはイヤホンのマイクより音を大きくはっきり拾ってくれるんだな。ちょっとの機材でこんな感じで変わるんだというのは、リモート時代には知ってて損はないかも。
 今回初めて認識したもう1つは「さんまのSUPERからくりTV」。私は芸能・テレビに格別疎いから必ず名前や番組名は検索するんだけど「さんまのからくりテレビ」は見てたからという油断だ…スーパーはSUPERだし、テレビはTVだった。悔しい。
 ちなみに「金スマ」は…見なかった。理由ははっきりと分からないけど、CMを見てる段階でなんとなく苦手で。深刻な話を見聞きするイメージがあったからかな?

 同心円とは“中心を共有する”2つ以上の円のこと。ブレないとは平常心のこと。回ってるという表現に囚われて駒を思い浮かべたら、ベーゴマがぶつかるイメージを作ってしまい、同心円のイメージと合わなくなったので、ちょっと理解に時間がかかった。同心円の言葉の意味を検索してよかった。今回の話もスッキリしたし、面白いサイトも見つけた。ココから直線で何キロが円で分かるのって、ちょっと楽しい。

同心円 - MULTISOUP 

 まずブレないこと。お互いブレてなくても、そもそも同心円では無いことを忘れないこと。ブレた時には辻褄を合わせる努力が必要だと知っておくこと。角田さんが時々「辻褄合わせ」という言い方をするけど、この辻褄合わせというもののイメージも今回掴めたと思う。
 辻褄を合わせないといけなくなる時は結構多いと思う。独楽で言うならブレが大きいのは最初と最後。ブレてるけど勢いのある序盤と、安定するのは中盤だけ。回り始めも回ってる時間も回るスピードも人それぞれ、楽に辻褄が合う時間は少ない。(独楽って字は悟ってるなー。回すとつまみが遠心力で地面に接し、逆さまで回る独楽、幼稚園の時に貰って…今どこにしまったかな?あとで探そう。)

 私は一緒に暮らしてないし近くに住んでもいない親族については何か諍いがあっても基本聞かないし、聞いてもどちらの言い分も半分しか聞かないと決めていた。暮らしてる者同士でしか分からないブレだけじゃなく、部外者だから見えるブレもあるけども、気だけ病むくらいならその場から離れると決めていたから。
 私は親族に対して冷たいというか、あまり執着がないと思う。よくよく思えば両親もそういう感覚を持った人だった気がする。よく親は選べないというけど結婚も友人も会社も選べるから、「選ぶ」ことで自分の責任が発生する分だけブレを享受することが出来るような気がするし、選んだものは後で離れるということも選べると思えばケセラセラでイケると思う。たぶん両親もそんな感覚だったんだろうと思う。

 親い=ちかしい。親しい=したしい。”親”という字を使う単語。日本でも血の繋がりは大事にされてきたと思うけど、介護等は法的にも親族で行うとされているんだってことを親に言われるのは気持ちいいものじゃないだろうし、そういう言い方をするとき、相手は諭してるつもりだ。何か不安があると諭す感覚でものを言いがちなのは目上、親族、特に親であることが多いと思う。
 人は、人が個人として形作られる年齢辺りの時代の空気を生涯持ち続ける傾向ってあるのかな?今は時代の流れが急速に変わることで、昭和時代よりずっとずっと不安になる高齢者は多いのかも…と頭に入れておこうと思う。弱った時、鈍感になった時、急に変更を言い渡される理不尽さ、理解できない不安、付いていけず切り捨てられる感覚。自分が見届ける高齢者と、自分が高齢者になるときまで。完璧じゃなくていい、辻褄さえ合えばいいんだ。

 何でそんな風にやらないの?って激しく言われたからやらない。宿題やったの?今やろうとしてたのに…と同じ(笑) 私は怒られるのも注意されるのも大嫌いという理由で宿題はなんとかやってはいたけど…小学校5年生だ。授業中に寝てしまって以後、社会人3年目くらいまで居眠り常習犯だった。やってきた宿題を開いたら途中で寝たらしくミミズ天国になってたこともあった。長距離が抜群に速くなった。クラスメイトが授業中に逃走した。からかわれてたクラスメイトがキレて暴れて相手に怪我をさせた。昭和も終わった。色んなモノがバラバラに、急速に変わっていったのが小学校5年生だったと思う。
 小学校5年生って11歳。2年前の9歳が小学校3年生。豊津さんの言う「高い絵はどれか?」が分かっちゃう最後の年齢。生まれは平等じゃないんだってことを小3までに体感しておくと、以後、他人と比較して僻んだり妬んだり悲しんだりしにくくなるというのはギャラリーの方の持論だけど、これも小3まで。年齢が一桁から二桁に変わると、ジリジリと変わり始めて、変わって2年目の11歳で色んなモノが表出するのかも知れない。
 ICUCでご一緒だったYさんには「脳のハードウェアが出来上がるのが12歳くらい。女児は9歳くらいで語感の好みが変わる。」と教えてもらった。12歳以降はソフトウエアなんだろうな。Yさんは本当に物知りで面白い。やっぱりこの年齢って心身ともに大きく変わるんだろうと思った。

パグをモフる❤︎までが角田さんのゴルフ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?