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そういう秩序であなたは生きているんだね

「嘘を吐き続けてそれでも愛されたとき、どの種類かわからない涙が流れた」という言葉をみた。

僕は、そのように人を愛することができるだろうか。

ひとが嘘を吐いたとき、それが嘘だと気づいていても、どうしてか信じてしまう。人は本当のことよりも、自分が信じたいことを信じてしまう弱さがあって、例に漏れず僕も生存本能的に信じたいものを信じているのかもしれない。

信じるということは愛なのだろうか。はたまた妥協? 「許す」ということとは、どれだけ距離があるのだろうか。相手に欺かれていることを知っていて、それに傷ついてもなお受け入れる覚悟ができたときの自由に自分もまた許されるのであれば、人を許すことでしか救われないのかもしれない。

「人を許せないのは完璧主義だからです。自分が間違うように、人が間違うことも認めることからはじめましょう」というまっとうな言葉をなにかの本でみたとき、他人を受容することができない人間の不自由さについて思った。

芸能人の不倫や薬物に関する報道がながれると、「芸能人のプライベートと作品は分けて考えるべきだ」という意見をみかけるが、僕は同意できない。

芸能人の場合、出演したドラマや映画、制作された音楽だけでなく、その人格も含めた「イメージ」が売上を支えている。強面のプロレスラーが普段は人あたりのよい人間だと知ったら、そのイメージの乖離に人それぞれなにか思うところがあるだろう。もともとイメージで食っているくせに、都合の悪いときだけイメージではなくコンテンツの中身や実力だけに注視をしろ、というのは甚だ勝手な要求だ。

僕個人としては不倫をしたアーティストが「不倫はいけません」というメッセージを発していたらどの口が言ってんだよとは思うが、特にそういう主張のある人でなければ気にはならない。僕はあまり気にならないけど、イメージで食ってる人間がイメージでなにか不利益を被ることも仕方がないと思う立場だ。

まあ他人が不倫していようが薬物依存だろうがどうでもいいのだけど、それがどうしても気に食わない人がいるのもわかる、ということだ。そういう人は自分と他人の境界線が僕よりただ曖昧なだけなのかもしれない。自分の規範が許していないことを他人が犯しているとき自分のことのように悔しく思える人なら他人の喜びや悲しみも同じように自分のこととして感じられるとすれば、そこには僕とは違う別の秩序があるのだろう。

自分とは別の秩序があるのなら、そこでは嘘が必要とされていてもおかしくない。信じることができないにしても、許すことができないにしても、「そういう秩序であなたは生きているんだね」と寄り添えたとき、自分の世界の秩序もすこし変わるかもしれない。

もちろん、「変わる」の向きが改善とは限らず、取り入れた秩序によって自分の秩序が崩壊するかもしれないことを忘れてはならないが。

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