にゃるら日記は詩的素敵しゅき
というツイートがありました。
平穏な暮らしが忍び寄ってくるのは、意外と悪いことではない……のかも?
富野監督の人生相談、『富野に訊け!!』でも、<結婚というのは「生活」と密着している>というコメントがあります。
<結婚>と<健康>、両方サブカルっぽくないうえに「生活」と密着しているので、無理やりですが<結婚>を<健康>に入れかえて考えてみます。
<健康>はスナックバス江のタツ兄の鉄板ネタであるように、加齢とともに威力を増していく話題です。その反動として、「生活」感がつきまとう。「生活」感はクリエイターの追い求める純粋さ、理想を遠ざけるかもしれない。
もしも、シャアが腰痛や老眼を訴えながら隕石落としを決行したら、たとえララァが「彼は純粋よ」と言っても、説得力は落ちる。どうしても生活の苦しみ、エゴがにじみ出てしまう気がする。腰の痛みにイライラして、やつあたりで隕石を落とすのでは?という邪念が浮かんでしまう。
ですが、生活感はカリスマ性を強調したキャラクター造形において不利に働いても、そのキャラクターを生み出す創作者にとってトモダチかもしれません。
富野監督は、『映像の原則』において、「ふつうをふつうに表現する」ことの大切さを述べています。「ふつう」を表現するための元ネタになるのは、「生活」と密着している日常ではないでしょうか。
平穏な暮らしを求めるなかで、「ふつう」の表現方法を手にしていく。
そして、生活感のありつつ尖った表現を生み出せたら、素敵だと思いませんか?
イデオンのような、激烈な戦いとブリッジでの日常パートが並行して進む演出を学ぶ方法は、平穏な暮らしのなかにあるのかもしれません。
この文章を書いたのも、イデの導きだろ!
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